赤川学「言説分析と構築主義」メモ

 思うところあり、赤川学「言説分析と構築主義」(上野千鶴子編『構築主義とは何か』)を再読したので要点をメモ。あくまで私的なメモなので、詳細な解説は省く。

 論文では、constructionismにはふたつの対立があるとする。1.本質主義vs構成主義、2.客観主義vs構築主義である。constructionismは対立関係に応じて二通りに翻訳される。1では、本質は存在しない、すべては社会的に構成されると構成主義が告発するとき、構成主義もまた「社会や文化がすべてを決定する」という本質主義に陥ると批判が紹介される。

 本編は2である。存在論的ゲリマンダリング(以下OG)の批判が検討される。ウルガー、ポーラッチは、「構築主義者たちは社会の状態や行動についての判断を停止するといいながら、その実、恣意的「状態」についての判断を忍びこませていることになる」(p.72)と構築主義を批判(woolgar, Pawluch, 1985)。

 例。「昔から児童虐待は存在したが、それは「しつけ」と定義されていた。現在はそれが「児童虐待」と社会問題化されるようになった。その背景には〜という社会的要因がある」との説明は、「児童虐待の実数は昔から変わらない」という暗黙の前提がある。社会状態が不変にも関わらず、言説が変化したということは、社会状態の変化以外の要因(社会構造、文化など)の存在が推定される。分析者はその要因を同定すればよい。以上が、オーソドックスな社会構築主義的言説分析である。

 OG批判論者は、これこそ社会構築主義の「公準破り」だと批判する。ここで赤川が「公準破り」とするのは、社会構築主義が暗黙のうちに「普遍の社会状態」の実在を前提とすることが、実在の社会的構築を主張する社会構築主義者には矛盾として現れるということだろうか。

 だが、そもそも社会構築主義者は、言説も含むあらゆる実在を否定しているだろうか。OGを擬似問題と断じる中河伸俊は、「2.そもそも何事かを説明するという営みには、何らの存在論的な想定が不可避である」との存在論的ゲリマンダリングの批判=OG2は不可避であるとする(p.73, 中河『社会問題の社会学』)。しかし、これを社会構築主義の批判への屈服とみなしてはならない。構築主義者が存在を認めるのはどこまでか。構築主義者は、社会の状態や実態についての判断は保留するが、言説が存在する事実そのものを否定することはない。さもなければ、分析も同定も不可能である。「厳格派」であるキツセや中河は、状態の判断回避を躊躇うことはない。構築主義者としては確かに一貫している。「その(言説の)向こうにある"客観的な(ほんとうの)"「状態」について私たちの想定や見積もりはリダンダント(余分)だ。だれそれがこう報告した、それに対してだれそれがこう反論した、といったぐあいに、言説実践の過程を記述していけばそれでいい」(中河前掲)。

 あるいは別の方針として、厳格派的戦略を採用せず、「実態」と「言説」を結びつけるのはどうか。客観主義と構築主義は方法論として矛盾しないか。「二兎を追う者は一兎をも得ず」の懸念がある。

 こうした状況認識のもと、赤川は「厳格派を選択することの恍惚と不安」に触れる。恍惚の側面とは、「構築主義者がアクセスできる研究資源は通常、言説だけなのだから、言説の内容をより精査に分析すればよい」という「割り切り」である。不安の側面とは、言説の同定や分析に伴う方法論的問題である。中河も不可避と評価したOG2の問い、構築主義者が社会問題について語る際に忍び寄る実在の影をいかに処理するか、その方法論が常に問われることになる。