山本太郎の件について ー直訴の歴史が語るものー

 山本太郎参議院議員が、10月31日、秋の園遊会にて天皇に私書を手渡した問題について、二、三点メモ書き程度に確認する。あらかじめ断っておくが、以下は山本の行為の是非に関する私見ではない。ある行為についての社会的"語り"から読解できる複数の方向性を提示しておきたいのみである。

1.「直訴」の歴史的意味

 ネットの反応や報道では、山本の行為を、足尾銅山鉱毒事件の惨状を解決すべく明治天皇に直訴した田中正造になぞらえ、美談として語る言説、あるいはそれに異を唱えるかたちで、歴史学的知見から両者が異なることを指摘する言説が散見された。だが、ある事例を別の事例と比較し、差異と同一性を強調する議論そのものが、同件に対する語り手の位置価をめぐる議論に終始することはままある。要するに、似ているといえば似ている、似ていないといえば似ていない。それはあなたの価値観次第というわけだ。

 だが、臣民たる田中が議員辞職した後、統治権の総覧者たる天皇に直訴したのに対して、山本は議員職に居座ったまま、国政に参与する権能を持たないと憲法で定められた象徴天皇に直訴するという自明の理で、前者を美化し、後者を断罪する議論に知的緊張は感じられない。行為の意味を歴史的に理解するには、差異よりも同一性をあえて強調することで、歴史的に反復されてきた意味論を比較検討し、分析対象をその系譜に位置づけることによって、当該行為の現在的意味を把握する試みが必要ではないか。

 戦後の主だった直訴は、思いつくだけでも以下のものが挙げられる。藩主の苛政に苦しみ将軍に直訴した作倉惣五郎(1653年)、杉木茂左衛門(1681年)、足尾銅山鉱毒事件を直訴した田中正造(1901年)、上奏事件の田中守平1903年)、軍隊内部の部落差別と待遇改善を直訴した北原泰作(1925年)、労農党結成に反対した児玉誉士夫(1929年)などである。

 直訴の理由や時代的背景について、各々のケースをここで詳しく述べることはしない。だが、これら事例を一瞥すれば、あることが思い浮かぶ。それは「義民」としての直訴の意味論の変化である。作倉惣五郎や杉木茂左衛門が、あくまで藩政に苦しむ農民の声を、藩主を飛び超えて将軍に届けた江戸時代中期においては、直訴の論理は、村落や藩など、あくまでローカルな共同体において基礎づけられていた。しかし、幕末以降の直訴は、上田騒動などの農民一揆を通じて、ナショナルな共同体に身を捧げる「義民」としての正当性を帯びていく。

 例えば、田中守平が、ロシアに対する強攻策を取るべしと明治天皇への直訴を計画した上奏事件は、当時の国民世論の大勢に近く、新聞は「憂国の士」として田中を義民扱いしたため、彼は逮捕されたものの、不敬罪は適用されず、のちに病気を理由に釈放された。あるいは、事件後、全国水平社に入社し、松本治一郎の秘書を務め、部落厚生皇民運動を展開するなど、一君万民の徹底による、「横並び」の臣民像を追い求めた北原泰作に、同様のナショナルな「義民」像を見出すことができるかもしれない。

 時代は多少前後するが、田中正造の直訴も、このような「直訴の義民化」の過程の事件として理解すれば、彼の行動がそれほど突飛なものではないことがわかる。統治権力に抑圧され、意思決定から排除された人々を代表して、ときの権力者に誓願する。直訴を義民として正当化するのは、こうした抑圧と排除の論理と、それを支持する幕末から明治にかけて成立したナショナルな言説の磁場である。

 ならば、福島第一原発事故健康被害原発作業員の労働環境について天皇に「直訴」した山本太郎を、私たちは彼らと同様のナショナルな義民として肯定できるのか?それが改めて問われなければならない。


2.天皇制の歴史的意味

 ここではいま一度、差異に注目しよう。田中正造はじめ、直訴した人々が義民化したのは、その対象が明治憲法にて統治権の総覧者として定められている天皇だったためである。その意味では、山本は、戦後の現代では明らかに直訴の宛先を間違えている。だがその事実をもってして、彼の行為を完全に的外れと断じるべきだろうか。

 再び歴史を振り返ろう。以前、別エントリ(天皇制の歴史ー天皇萌えの歴史的起源)にて、私はこのように述べた。

「一部の例外を除いて伝統的に日本では、天皇は実質的な権力者によって権力の正当性を示すために担がれてきた経緯がある。平安時代、政治の実権を握っていたのは天皇外戚関係にあった摂政・関白である。藤原不比等による権力の掌握以降、この地位は藤原北家によって世襲的に継承された。ここで天皇は実質的な政治的権力を握っている藤原氏によって、統治が正当であることを内外に示す根拠として機能した。承久の乱以後の武家政権の成立、将軍と朝廷(天皇)の関係も同様である。源氏以後の実質的統治を担った北条氏は、承久の乱で朝廷軍に勝利し、首謀者を罰したものの、天皇家そのものを根絶せずその血統を温存した。江戸時代は期間が長く評価は慎重になるべきだが、それでも天皇の石高はわずかであり、政治的実権を有することはなかった。天皇には茶道・俳諧などの文化活動や、年号の決定や将軍などの役職の任命など形式的にその権威を示すに留まっていた。」

 すなわち、

天皇制が2600年を超える歴史を有してきたのは、日本の歴史において、天皇は常に時代の支配者に従属し、正当性の根拠を調達される方便であったためである。その脆弱性ゆえに天皇制は権力者にとって都合の良い「錦の御旗」として利用価値があり、それゆえ存続を可能とした。」

 このように、実体的な統治権力を握ることなく、その都度の権力者によって、正当性のリソースとして「政治利用」されてきた天皇の歴史を鑑みれば、憲法にて天皇大権が規定され、広範な権限を有していたため、直訴の「名宛人」として明記されることのできた明治・大正・昭和期のほうが歴史的には特異なのかもしれない。

 ならば、戦後、天皇大権を剥奪され、国民統合の象徴に収まった天皇への直訴は、法的に基礎づけられた誓願の彼岸を超えて、再び空虚な政治的正当性のリソースとして、歴史的に利用されてきた天皇像に回帰しようということだろうか。実際のところ、違法性を論拠に山本を批判する言説の背後に見えるのは、曖昧模糊ながら戦後日本に張り付いてきたタブーの空気である。すなわち、表面的には違法性や脱原発カルト批判を体裁として装いながら、人間を宣言することによって逆説的に神聖化した、とらえどころのない天皇観が平成の現在においてもこびりつくように残存しており、底流を走るドロドロした日本のエートスが、今回の山本の行動を契機に再び噴出しているように思われる。

 ともすれば、自民党脇雅史参院幹事長、公明党石井啓一政調会長民主党大畠章宏幹事長、八木秀次など、皇室典範改正や中国国家主席との会談など、山本などよりはるかに、天皇の政治利用に加担してきた政治家、保守論壇誌お抱えの論壇人が、上述した天皇観について直接的に言及することなく、違憲性、違法性を名目に山本批判を展開しているのは噴飯物の議論というしかない。空虚な中心たる天皇の意向を、統治権力が過剰忖度することで恣意的解釈を振りかざし、統治の便宜とすることこそ「天皇の政治利用」ではないのか。

 無論、山本の行為を伝統に則しているなどとして肯定する意図などさらさらない。そうではなく、現在、同件を批判的に論じる際に参照される違法性に関する議論、たとえば、天皇への誓願は内閣を介すべしとの請願法違反を指摘する議論などが、あっさりと通り過ぎる天皇制の歴史を軽視すべきではないと指摘しておきたいのみである。


3.脱原発運動の隘路。

 1にて述べたように、江戸末期から明治にかけて直訴という行為に付与される意味が変化し、義民として受容されるようになったのは、政治制度の変革やメディア環境をはじめとする様々な要因によりナショナルな共同性が立ち上がり、誓願された内容に国民世論が共鳴する基盤が準備されたためであった。

 ならば、2013年の現在において、震災以降、喫緊の政治課題として浮かび上がった原発政策について、たとえ極端で的外れな行動であろうとも「直訴」した山本が、まるでピエロのように嗤われるのはなぜか。手紙にて伝えられた内容を切り離して行為の形式の観点から断罪して終わるのではなく、彼が訴えた内容が一定数の国民世論の共感を呼びそうにも関わらず、受け入れられなかった事実に、山本のみならず、震災後の脱原発運動の限界を読み取ることができるかもしれない。このような観点から、山本はなぜ「義民」たりえなかったのかを考える必要がある。

 震災直後の福島第一原発をはじめとする、原発政策の転換を求める脱原発依存は「動員の革命」、あるいは、中東諸国で連続して起きたジャスミン革命などの政治革命になぞらえて「紫陽花革命」と呼ぶ向きもあった。これら政治運動の意義についてここで述べることはしない。しかし、たしかにこれら脱原発運動は、戦後史において極めて例外的な社会運動だったものの、運動の縮小に伴う構成員の「カルト」化、あるいは、政権与党であった民主党原発政策の転換、2012年衆院選にて脱原発マニフェストに掲げた日本未来の党の敗退(もっとも同党の敗退は小沢一郎へのネガティブなイメージによるものが大きかった)、さらに政権与党に返り咲いた第二次安倍自民党政権の2013年参院選における大勝という政治的動乱のなかで、脱原発を求める世論は確実に退潮していった。

 たしかに政策別世論調査によれば、現在でも多くが脱原発を求めている。しかし、国民の関心は、年金・医療などの社会保障景気対策を最も重視する傾向にあり、原発政策への関心は下位である。震災直後はマスメディアやネットなど広範囲で議論された原発に関する議論は、すっかり沈静化し、現在は、カルト的な脱原発派が吹聴する、科学的根拠に基づくことのない放射能への恐怖を揶揄する「放射脳」批判ばかりがネタ的に消費されるばかりである。たとえ、非科学的であり、論拠薄弱であろうとも、恐怖が社会的事実としてリアリティを構成するという意味では、彼女ら脱原発派の言説や政治的影響力を無視するわけにもいかないだろうし、研究者、ジャーナリスト、素性不明のオピニオンリーダーが、叩いて安心の人物や言説を寄ってたかって攻撃することで維持される言論の共同性にみずからが参与していることに無自覚な者には呆れるほかない。が、だからといって彼女ら脱原発派が"そんな扱い"をされているという事実は揺るぎない。脱原発派は、言論的にも政治的にも敗退したのである。

 つまり、山本が義民になることができなかったのは、こうした脱原発運動が隘路に迷い込んだ結果、多数の国民が彼らに向ける冷めた目線がそのまま"パン"して山本に浴びせられたためではないだろうか。


 以上、1〜3を考えると、"不敬"や違法でもなく、ましてやひとりの変人の奇行でもなく、彼らが等閑視していた山本の行為を、歴史的経緯に位置づけて理解することができるのではないか。以上、1〜3はあくまで着想程度に思いついたものなので、今回の一件を歴史的に把握するためには、さらなる考察が求められるだろう。それは今後の課題としたい。