政治的リーダーシップ論と政治を語る言葉

 2012年12月の野田内閣退陣から既に9月ほど経過し、政治学・政治評論・ジャーナリズムの領域を中心として、約3年間の民主党政権期を総括する言説が揃ってきた。だが、それらの論考を読んでも、なんとも言えないやるせなさを感じてしまう。それは、民主党政権云々ではなく、昨今の政治を語る言葉に対するやるせなさであり、それら現況に対して自分がいかに応対すべきか見つけることができずにいるやるせなさでもある。

 都度の政権、及び首相はじめ個別政治家の評価に関する言説が、半ば時事評論のごときものとして、時期が過ぎれば新聞記事のように消費される政治的言説に必然的に伴う傾向を、政治を語る言葉のジャーナリズム化として説明することはできる。だが一方で、政治学における政治の語り、とりわけ政権、及び首相ら政治家への評価の視座は、分析の方法論としていかなる位置を占めてきたのか。これを確認しておきたい。

 イーストンによれば、現代政治学パーソンズの社会システム理論の構造機能分析を起点とする(イーストン『政治生活の体系分析』)。複数のシステムの相互関連性により行為システムを析出するパーソンズの理論は、政治現象の自己完結的説明と各国の共時的比較を可能にする分析を提供し、政治科学(political science)の発展に寄与した。しかし、パーソンズ流の構造機能主義は、政治システムにおける〈人為的な不確実性〉を〈複雑性の縮減〉によって捨象することで、パーソナリティ、役職・地位、資源、価値といったリーダーシップ論を軽視する結果をもたらした。

 いまや「ウェーバーマルクス」を引用するまでもなく、こうした現象は、社会システム理論にはじまる政治科学諸理論が、政治行為を規範的に把握するウェーバー・デュルケム的視座ではなく、合理主義的パターンで把握するウェーバーパーソンズ的視座の延長線上に現代政治学が発展したことによる必然的帰結であった(川原彰『比較政治学の構想と方法』)。

 70年代以降の政治学では、こうした課題を克服するために、構造機能主義に支えられた現代政治学の枠組みとリーダーシップ分析を接合するべく、多くの理論的試みがなされた。リーダーの性質を、心理的特徴(個人レベル)、構造的資源(制度レベル)、政策的実現(制度・政治レベル)の各次元にて概念を精緻化し、対象リーダーの性質を分析するアプローチ、リーダーの対概念たるフォロワーシップの相互作用を分析するアプローチ、政治心理学を応用したパーソナリティ分析のアプローチなど、アプローチの方法は多様であり、ここではこれ以上の詳述はしない。いずれにせよ、政治的リーダーシップ論は、個別具体的かつ可変的な政治状況に依存する政治的リーダーシップを理論的に説明するため、パーソナリティ、役職・地位、資源、価値、制度など様々な要素を考慮し、一般理論として体系化すべく、方法論の確立を目指してきた。

 しかし、一方の極に政治家の人称性に傾注するあまりシステムを語り得ない政治評論・ジャーナリズム的言説が、対極にシステムに傾注するあまり人称性の視座を喪失した政治学的言説が、相互に交わることなく島宇宙的に偏在する現状はいまでも変わらない。

 例えば、鳩山内閣にて官房副長官として政治システム改革に取り組んだ松井孝治は、内閣官房国家戦略局、戦略局を中心とした予算編成の法的制度化を盛り込んだ政治主導法案が不成立に終わった要因のひとつに、政府ー与党一元化を目指す政権と、形式的一元化により政策決定過程における党のプレゼンスの低下に抵抗する小沢一郎はじめ非閣僚民主党議員間の対立を挙げる(『世界』別冊 no.841 政治を立て直す)。松井の認識の妥当性を検証し、事態を説明するためには、政権・政党間の権力・資源配分の分析、法制度分析といったシステム論では不十分であり、小沢一郎という特異な政治家が当時の政権に及ぼした影響を、何らかのかたちで、しかも政治評論・ジャーナリズム的言説で終始することなく分析しなければならない。

 私が最近の民主党政権期総括の言説に不満を感じるのは、政治を語る言葉が、学問的言語とジャーナリズム的言語の間で股裂き状態に陥り、政局的に蔓延する停滞の心情が、あたかも言葉の領域にも浸透するような感覚を覚えるためである。「何を語るか」は「いかに語るか」という方法論から逃れることはできない。政治的立場にかかわらず、手垢にまみれた言葉を使いまわしたような非生産的な政権批判ももはや聞き飽きた。今一度私たちは「いかに語るか」を考えなければならない。