古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

 本書の最大の主張は、「若者よあきらめよ」ではなく「若者をあきらめらさせろ」である。ホネットの議論を参照しながら作られた「共同体の二元図式」において、目的性も共同性も強い第1象限に類型されるピースボートの理念、並びに彼らの理念に適合的な「セカイ型」の若者たちの「アツい」思い。彼らの強い意志は、一旦、人間関係が形成されてしまえば、ただちに目的性を喪失し、その場その場の「ノリ」や「居場所」を楽しむ「文化祭型」と同様の第4象限に「冷却」されてしまう。ある理念を実現するために形成された組織が、人間どうしの関係が自己目的化することで「居場所」化、つまり目的性が弱く共同性の強い組織に頽落する。社会運動やサークル活動など様々な集団に当てはめてもかなり普遍的現象ではないだろうか。

 このような傾向に対する著者の分析は思いの外に周到で冷徹だ。たとえば、経済的困窮に喘ぎ、社会的関係から排除された者に対して、自分が「ここにいてもよい」と承認される居場所が必要という「承認の共同体」論に対しては、「分配の正義に異議申し立てするのではなく、市場を補完する装置として機能する」との本田由紀の現実的意見を必ずしも否定することはせず、それどころか積極的に肯定してみせる。しかしその一方で、「承認の共同体」は若者の「あきらめ」の場所になるという事実もまた否定しない。「いい学校→いい会社→いい家庭」という「戦後日本型循環モデル」が崩れたいま、アメリカ的なキャリアラダーも整備されない現代の日本で、旧来的「夢追い」がうまくいきそうにないのもまた事実。そんなことをするくらいならば、友だちとバーベキューしたりWiiでマリオを遊んだほうがずっと楽しいのではないだろうか、と。

 これは相互に矛盾した二重戦略だろうか?私はそうではないと思う。「社会資本は経済資本の困窮を是正しない」ゆえに「承認の共同体」は新自由主義を温存するという解釈と、それでも社会資本から疎外された若者に承認を与えるという解釈は、いわばカメラをどこに置くかという観点から生じる違いである。著者の「承認の共同体」論は、実現させてくれないならば夢をあきらめさせてほしい若者が退避するシェルターとしては十分に機能するだろうし、そうした居場所が不要であるとは思えない。しかし本書は同時にマクロな議論を避けている。もちろん著者は織り込み済みなのだろう。「承認の共同体」が新自由主義に対抗どころかこれを棹さすならば、配分の正義を実現するエリートが必要だ。しかし著者はこうした議論に対して「あきらめきれない人が勝手にすればいいことだと思う」とそっけない。さらに奇妙なことに著者は自身の立場をエリート主義と呼ばれることを厭わないのだ。配分の正義を実現するエリートをいかにして生み出すかを正面から受け止め、教育や政治を論じるのがエリート論ならば、「できる人が頑張ってください」とゲームから下りるのもまたエリート論というところだろうか。好意的に解釈するならば、著者の「承認の共同体論」は、パワーエリートと表裏一体の関係にあるのかもしれない。そんな楽観論で政治や経済は語れないし、社会が回るはずがないとは思うけど。