希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)
- 作者: 古市憲寿,本田由紀
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2010/08/17
- メディア: 新書
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このような傾向に対する著者の分析は思いの外に周到で冷徹だ。たとえば、経済的困窮に喘ぎ、社会的関係から排除された者に対して、自分が「ここにいてもよい」と承認される居場所が必要という「承認の共同体」論に対しては、「分配の正義に異議申し立てするのではなく、市場を補完する装置として機能する」との本田由紀の現実的意見を必ずしも否定することはせず、それどころか積極的に肯定してみせる。しかしその一方で、「承認の共同体」は若者の「あきらめ」の場所になるという事実もまた否定しない。「いい学校→いい会社→いい家庭」という「戦後日本型循環モデル」が崩れたいま、アメリカ的なキャリアラダーも整備されない現代の日本で、旧来的「夢追い」がうまくいきそうにないのもまた事実。そんなことをするくらいならば、友だちとバーベキューしたりWiiでマリオを遊んだほうがずっと楽しいのではないだろうか、と。
これは相互に矛盾した二重戦略だろうか?私はそうではないと思う。「社会資本は経済資本の困窮を是正しない」ゆえに「承認の共同体」は新自由主義を温存するという解釈と、それでも社会資本から疎外された若者に承認を与えるという解釈は、いわばカメラをどこに置くかという観点から生じる違いである。著者の「承認の共同体」論は、実現させてくれないならば夢をあきらめさせてほしい若者が退避するシェルターとしては十分に機能するだろうし、そうした居場所が不要であるとは思えない。しかし本書は同時にマクロな議論を避けている。もちろん著者は織り込み済みなのだろう。「承認の共同体」が新自由主義に対抗どころかこれを棹さすならば、配分の正義を実現するエリートが必要だ。しかし著者はこうした議論に対して「あきらめきれない人が勝手にすればいいことだと思う」とそっけない。さらに奇妙なことに著者は自身の立場をエリート主義と呼ばれることを厭わないのだ。配分の正義を実現するエリートをいかにして生み出すかを正面から受け止め、教育や政治を論じるのがエリート論ならば、「できる人が頑張ってください」とゲームから下りるのもまたエリート論というところだろうか。好意的に解釈するならば、著者の「承認の共同体論」は、パワーエリートと表裏一体の関係にあるのかもしれない。そんな楽観論で政治や経済は語れないし、社会が回るはずがないとは思うけど。