震災と宗教ー『USB』『カインの末裔』にみる原発ムラからの脱出の断念ー

 奥秀太郎監督『USB』は、閉鎖的原発ムラからの脱出とその断念という極めて今日的主題を扱っている意欲的作品だ。本作の舞台は、原子力発電所の臨界事故が起こった茨城県筑波の小さな町という設定。もちろんこの設定は、99年に臨界事故を起こした茨城県那珂郡東海村を連想させる。街には放射能警報が日常的に放送され、原発放射能は住民の生活に深く侵入している。町はいたるところに原発の影を落としており、いわゆる「原発ムラ」であることを伺わせる(正確には原発ではないが)。たとえば主人公である祐一郎の境遇である。医大合格を目指すために受験予備校に通う祐一郎は、ギャンブルで重なった借金を返済するため、ヤクザに半ば強要され、みずからが通う予備校生相手にドラッグの密売を行っている。しかし、そうした厳しい状況に追い打ちをかけるように、同じ予備校に通う恋人の妊娠が発覚してしまう。中絶のための費用が必要だと考えたのだろうか、祐一郎はドラッグの売人という仕事に加えて、不良仲間に地元の医大病院でのアルバイトを紹介してもらう。そのアルバイトとは、医療施設にて放射線を自分の体に照射することで、人体への影響を観察する治験であった。薬品を飲んで放射線照射するために入れられた部屋は何ひとつ物が置いておらず、田舎には似つかわしくないさっぱりした風景。放射線照射と思われる光が差し込めたその瞬間、祐一郎は確信する。自分は「被曝」したのだと。

 原発ムラは閉じられた世界であり、その外部に逃れることはできない。劇中には、閉鎖されたムラからの「脱出の断念」を示唆する隠喩が髄所に登場する。祐一郎にアルバイトを紹介したジャンキーカップルは、祐一郎に3人で国外逃亡をするよう誘うが、脱出の直前に地元のヤクザに射殺されて息絶える。原発ムラからの脱出の断念。他にも、頻繁に登場する「肉」は同一の象徴機能を示す。本作は祐一郎とその母(桃井かおり)が朝から食卓で焼肉を焼くショットからはじまる。彼らが朝から肉を食うのは父の持論によるものだ。医者であった父は生前、朝から肉を食うことで健康を維持できると主張していた。母はその教えを律儀に守り、朝から焼肉、祐一郎の昼の弁当に焼肉、父の遺影の前に焼肉を添える。焼肉は父の隠喩であり、死の隠喩でもある。それがもっとも象徴的にわかるのは、終盤に差しかかった祐一郎の夢と思われる幻想的シーンだ。過去の記憶が断片的にフラッシュバックするこのシーンにて、葬儀場で父の遺骨を取り出す際の箸の動きが、肉をつかむ箸の動きに酷似している。祐一郎は肉に父親を象徴的に見出しており、両者は等価に扱われる(肉=父)。同時に肉は死の隠喩でもある。父の死因は胃がんであり、みずからが提唱した「焼肉健康法」によって健康を害したことを示唆している。ここにて、「肉=父=死」という象徴的な意味関係が成立する。こう考えると、祐一郎が焼肉を捨てるシーンも理解できる。母親は昼食として焼肉弁当を持たせるが、祐一郎はこれを口にすることはない。箸でひとつずつつまみ(この動作が遺骨をつかむ動作に酷似)、路上にポイ捨てする。肉のポイ捨ては、肉=父=死の拒絶であり、父への嫌悪感=医者である父の跡を継ぐことを親戚から進められ、その既定路線から外れることもできないまま、惰性で受験勉強を続けていることへの嫌悪感(肉=父)、そして死が渦巻く原発ムラへの絶望感(肉=死)を意味する。放射能警報が鳴り響き、父は死に、ジャンキーの友人は射殺され、治験に望んだ人びとは死に近づく。死が渦巻く原発ムラへの絶望感を。

 映画のラストは救済とも絶望とも解釈できる奇妙な演出で終わる。妊娠した彼女の手を引きX線検査機の前に立ち、まるで家族の記念写真のように医者に撮影を頼む。一度に浴びる放射線量が230μシーベルトであることを確認した上で、祐一郎は何度も何度も「もういっかい……もういっかい……」と呟き、放射線を浴び続ける。それとともに画面は徐々に明るい光に包まれる。宗教的救済のように見える演出だが、果たして祐一郎は救われたのだろうか?とてもそうとは考えられない。映画はその前まで、脱出不可能な原発ムラという逃れがたい現実を描出してきた。放射線の光による救済はそうした現実から目をそらす一瞬の気休め程度のものだろうか?

 奥監督の前作『カインの末裔』は、タイトルの通り、宗教というテーマをより正面から扱った作品だ。舞台はある工業都市の真ん中、医療少年院で10年間を過ごした棟方(渡辺一志)は、貨物列車で石灰石が運び込まれるように電子部品を組み立てる小さな工場へたどり着き、劣悪な環境の下、下請けのはんだ付け作業を繰り返す。ある日、「小遣い稼ぎをしないか?」と牧師の松村(田口トモロヲ)にテレビリモコン型改造拳銃の制作を以来された棟方は、戸惑いながらも金ほしさにこれを引き受けてしまう。しかし悲劇が起こる。工場の社長一家の孫である年少の子どもを部品の暴発で、事故死させてしまうのだ。映画は登場人物が目隠しをされ、ひざまずいた棟方の後頭部に拳銃を当て、処刑することで終わる。非常に救われない物語だ。

 なぜ奥は、『USB』と『カインの末裔』で徹底的に救われない人びとを描いたのだろうか。これを考えるには、映画のタイトルにもなっているカインとアベルの逸話を振り返るべきだろう。ユダヤ教聖典である旧約聖書『創世記』に収められているこのエピソードは、極限状態でも神への信仰心を保つことができるかを教える教訓である。

 カインとアベルは、アダムとイヴがエデンの園を追われた後に生まれた兄弟である。「土を耕す者」カインが地の作物を、「羊を買う者」アベルが羊の初子を神に捧げるが、神はカインの捧げ物を無視し、アベルの捧げ物だけに目を留める。嫉妬に駆られたカインは、弟のアベルを野に誘い出し殺害する。一部始終を見ていた神はカインにアベル失踪の理由を問うが、カインは「知りません。私は弟の監視者なのですか?」と答える(これが人間の最初の嘘とされる)。すると神はカインを殺人の罪で糾弾しエデンの東に追放した。われわれ人間はカインの末裔であり、生まれながらに罪を背負っているとされる。

 このエピソードは、神に愛される人間と愛されない人間がいる事実、そして、いかなる環境においても神への信仰を捨ててはならないという教訓を伝えている。しかし、これはあまりにも理不尽ではないだろうか?そもそもなぜ神はアベルの捧げ物を選び、カインの捧げ物を選ばなかったのかにわかに納得することはできない(カインは貢物のもっとも美味い部分を神に与えなかったため因果応報であるという解釈も存在する)。しかしこの疑問は、一神教であるユダヤ教の性格を考えれば理解できる。ユダヤ教においては、神は全知全能であり宇宙のすべてを設計した超越者として理解される。ところが、ならばなぜ恵まれる者と恵まれない者がいるのか?健康の人と病気の人、才能溢れる者とそうではない者、征服者と被征服者が存在するのか?神はこれらの差異のすべてを設計し、その存在を認めているという事実を、どのように受け止めればよいのか?この問題は、被征服と民族差別を受難してきたユダヤ人には極めて現実的課題であった。神の存在を否定せずに、この疑問に応える方法はただひとつ、不遇を神による試練と解釈してしまえばよいのだ。自分より神に愛されている誰かに対して嫉妬心を抱き、神を恨んでいるのでは一神教は成立できず、共同体を定立させている根本的教義を否定することになる。不遇による神への怒りは禁じ手であると教訓化したのがカインとアベルの逸話である。『USB』と『カインの末裔』は最後の最後までとことん救われない不幸と絶望に満ちている。しかし、そうした限界状況において宗教性は顕現する。それが『USB』のラストにて、放射線として差し込めた暖かな光は、絶望の淵に立たされた祐一郎が宗教に対峙した瞬間である。

 そして私たちは、『カインの末裔』の舞台もまた同様に原発に隣接した工場地域であることを見逃してはならないだろう。牧師の松村の娘ゆかり(楊サチエ)は、棟方に原発について、「誰も止める方法を知らないのに動かしてしまった」「その方法は未来に託した」と語る。『USB』ほど直接的ではないが、逃れることのできない環境での悲劇は、原発ムラを連想させる。両作は、原発ムラからの「脱出の断念」という限界状況における「宗教性の顕現」というモチーフを共有している。私たちはあの震災によって、「カタストロフィと宗教」、「絶望と救済」という終わりなき問いを再び突きつけられた。死を受け止めるのは祈念すること。立ち止まって思考すること。安易な政策論や凡庸で抽象的な希望論を語ることではなく、事実に対峙すること。奥監督の両作は、震災に対して私たちが今こそ立つべき足場を確認させてくれた。