安田浩一『ネットと愛国』ー排外主義者の笑いのセンス(2)

承前
 さて、わたしが最初に問題にしたのは、排害社会員と市民の間の笑いに関する断絶、ズレであった。なぜ排害社会員が笑った「ネタ」を、市民は笑わないどころか、目を逸らしてまるで聞こえていないように振舞ったのか。答えは単純だ。市民の側に笑いの前提となる構図が内属していないためである。市民の多くは、「良きシナ人」の存在を経験的に知っているし、そもそも人の良し悪しに人種や国籍が関係ないことを(程度の差こそあれ)知っている。たとえアイロニーであったとしても、UFO、ツチノコと並べてまでその希少性を比較するという発想そのものがないのだ。排害社会員には自明の前提として内属する構図が市民には存在しない。

 前提条件となる構図が、一部の人びとにしか共有されていないにも関わらず、転倒によって笑わせることができると確信し、行動に移したとき、これを「内輪ネタ」という。金友のジョークは、排害社の会員だけが理解できる内輪ネタである。にも関わらず金友の冗談が演説である以上、その対象(つまり笑ってほしい人びと)は、構図の内属しない市民である。ここが重要なポイントである。金友の冗談は、「市民も我々と同様に両者をあえて比較する構図が内属しているはず」という根拠なき確信によって発せられたのだろうか。それとも「彼らに構図は内属していないだろうが、我々は演説によってそれを啓蒙することができる」、あるいは「笑いを理解されなくても、肝心の主張さえ理解されれば十分である」と妥協の態度を選択したのだろうか。私の考えはこのいずれでもない。それは「金友の冗談は、市民に向けられているように装いながら、実際には仲間である排害社会員に向けられており、さらに金友はその事実を自覚している」というものである。

 この仮説は、金友のネットに対するこだわりからも根拠づけることができる。安田によれば、金友も在特会と同様、ネットを最大の武器として活用しているという。排害社に入る若者の多くが、彼のブログをきっかけに参加を決めるらしいのだ。インタビューに際して、彼はびっしり手書きされたノートを持ち出し安田にこう語る。

「僕のブログの毎日のアクセス数なんです。どんなテーマで記事を書けばアクセスが伸びるか、どんな言葉を使えば反響が大きいか、常に分析しています」

 己の行動が周囲にどう見られているか、神経質なまでに分析する金友の態度は非常に自己反省的なものである。周囲の反応を気にしながら、データの反映として露悪的文章を綴る。みずからが主張したいことをありのまま書きつけるのではなく、ブログ閲覧数を几帳面に分析し、人気記事の傾向を把握することで、次回以降の記事に反映させる。こうした金友の態度は極めて現代的であり、マーケティングに熱心なIT企業や、フォロワー数、お気に入り数、リツイート数が気になって仕方ないTwitter中毒者に類する性格である。つまり金友は、他者からどのような目線で見られ、評価されるかに極めて敏感なのだ。それはネットへのデータ至上主義的態度、アンバランスにも関わらず「コワモテファッション」に身を包み、周囲を威嚇するという「戦略的」な態度に共通している。その金友が、みずからのアジテーションが聴衆にどのように受容されていたか、自覚していなかったはずがない。彼は、みずからのジョークが仲間の会員にしか流通していないという事実を知っていたのである。

 しかしここでさらなる疑問が浮かぶ。彼の冗談が、街宣の聴衆である市民に届かず、仲間の会員にしか届いていないことを自覚しているのならば、なぜわざわざそのような両義的態度をとったのだろうか?つまり演説に冗談を組み込むことで、間接的に会員に語りかけたのか?そこに市民に伝えようという意志がまるで感じられないのはなぜか?さらには、なぜ冗談を媒介することでしか仲間に語ることができなったのか?

 ここに、過激なレイシストの個別事例から、政治に関心を示す若者に広く共通する傾向へと敷衍して解釈するカギがある。安田は、はじめて排害社の演説を目にしたとき、嫌悪感と共に、「重みのなさ」を感じたという。たしかに金友の演説は語彙が豊富で、しゃべりも手馴れている。しかしその演説には身を切るような重厚感がない。饒舌にも関わらず表面的で心に響かない演説、そして黒ずくめの服装や作務衣による「コワモテ」演出。その一方で、神経質なほどにブログのアクセスに敏感で、左翼団体や警官との衝突では決して最前線に立つことはなく、後ろから拳を振り上げる態度。両者のギャップに安田は「臆病さ」を感じる。

 テンプレートのような態度や言説を反復することでしか自己表現できない貧困で脆弱な政治性は、排害社のみならず、近年政治に関心をもつ数多くの若者に共通する。彼らは家族、友人、恋人関係や、大学、職業への不満、将来への漠然とした不安など極めてパーソナルな日常への閉塞感に鬱屈を溜め込んでおり、あるとき「真実」に覚醒することでそれから解放されたかのような高揚感を味わう。私たちが立脚する日常の閉塞感は、中国や韓国などの「特定アジア」、戦後民主主義を擁護する日教組などの左翼勢力、既得権益にしがみつく「老害」の「団塊オヤジ」によってもたらされたものであり、これらを打倒しなければ個人的にも社会的にも安定を得ることはできないと。

 しかし、漠然とした問題意識とやり場のない情熱は持ち合わせているものの、それを咀嚼する知識も、「闘争」を引き起こす経験も、行動に結びつけるだけの関係も未熟で不十分である。なにより彼らの多くは、政治に限ることなく、人とのコミュニケーションを苦手としている人が多い。つまり、私的感情を公的空間に結びつけて行動する能力に欠けているため、話したいことがあるのにうまく表現できない、いわば吃音のような状態に陥ることになる。問題を共有して何か行動を起こしたいという熱意はあるものの、それをいかに表現すればよいのかわからない。そのため、「ゴキブリ」「売国奴」「嫌韓」のようなテンプレート化されたメッセージを反復することでしか自己表現できず、同志との関係性を繋ぎ止めることができないのだ。

 意識や欲望を現実に繋ぎ止めるために、テンプレート(=ステレオタイプ化されたスローガンや思考の枠組みなどの知的体系)を反復し、知識を簒奪することでしか他者とコミュニケートすることができない不器用さこそが、今回のケースに象徴される近年の若者に広く共通する政治的態度である。さらに敷衍すれば、こうした態度は政治にかぎらず、ほとんどの若者に通底する態度と解釈することもできる。表現したいことはあるのだが、彼はそれが陳腐なものであり、外部に向けて発するほど価値がないことを自覚している。しかし、表現しなければ社会に自分自身の位置を定めることができない。そのためテンプレや形式化された概念に逃亡する。概念を媒介することでしか自己表現できないのだ。この傾向を「概念への逃走」と名付け、今後の課題とすることで論を終えよう。


ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

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