安田浩一『ネットと愛国』ー排外主義者の笑いのセンス(1)

 在日コリアンに差別的なスローガンを浴びせかけ、過激な行動を繰り返す在特会在日特権を許さない市民の会)。近年、インターネットで一気にその名を知られ、急速に勢力を拡大した排外主義的ナショナリストの集団である。本書は、ジャーナリストの安田浩一が『G2』にて二回にわたり掲載した詳細なルポに大幅な加筆修正を加えて、彼らの実像に接近した渾身の著作だ。そこで浮かび上がるのは孤独で臆病な若者の鬱屈した心情である。安田がインタビューする在特会の会員は、さまざまな理由で社会の中で「うまくいかない人たち」が多い。彼らは、「出てこいチョンコ!」「ゴキブリ朝鮮人を日本人から追い出せ!」といった差別的な言葉を吐き続けることで、みずからのアイデンティティーを確認する。安田が靴をすり減らした成果である本書には、機会を改めて正面から応える必要があるだろう。今回は、在特会そのものではないが、最近の若年ナショナリストの政治への接近の仕方が非常に象徴的に表現されていたワンシーンを題材に、若者と政治の不器用な関係について考えたい。

 それは在特会と密接な関係をもちながら別個に活動する「排害社」という組織についてである。20代、30代など、他の政治団体より若年層の多い在特会と比較しても、排害社はさらに若い。同組織を率いる金友隆幸は85年生まれの現在26歳、大学を出て4年ほどである。全体に漂う幼さは隠しきれず、「イケメン」の部類に入るらしいその顔立ちと、編み上げブーツに黒シャツという「コワモテ」を意識したファッションに、安田は「アンバランス」さを感じる。安田は、取材で目にした排害社の街宣活動を「最悪」と評する。コワモテファッションの金友を先頭に、「シナ人はとっとと日本から出ていけ!」「シナ人は地球にいらない!」「シナ人を見たら泥棒と思え!」などのシュプレヒコールを叫びながら、繁華街を練り歩く。京成上野駅前で安田が目撃した演説にて、金友は次のように叫ぶ。

「UFO、ツチノコ、良いシナ人。このなかで、どれが一番最初に発見できるでしょうか。良いシナ人に関しては、最後まで発見できないと私は確信しているのであります!」。笑っているのは参加者だけだ。大半の通行人はちらっと流し目で街宣を見やるだけで、あとは無関心を装いながら通りすぎる。当たり前の反応だろう。「支那人排斥」などと大書されたプラカードの前で、どんな顔をして立ち止まればよいのか。

 金友による「ジョーク」はさまざまな意味でおぞましいものである。まず、それが面白みのかけらも感じさせないほど「サムい」こと。それにもかかわらず、排害社の面々は彼のジョークをまるで楽しんでいるように笑っていること。つまり市民の視線と排害社の視線の断絶。さらに、そうしたサムいジョークが在日朝鮮人や中国人への剥き出しの敵意に満ちた差別的なメッセージと一体化して発せられていることがおぞましい。彼らはなぜセンスのかけらもないほどつまらない、客観的(市民目線)にはなんの面白みすら感じられないジョークに笑ったのか。本稿にて注目するのはこの点である。後に詳述するが、この「笑い」の問題について考えることで、近年の若年層に共通して見られる政治へのスタンスを抽出することが今回の目的である。

 「笑いの哲学」の古典であるベルクソンの『笑い』には、以下のような記述がある。

「さまざまな職業や仕事は、それぞれ独特の癖と隠語と特定の行動様式を生むがゆえに、そのすべてが潜在的な枠となる。そうした諸要素が固定化すると、ある種の滑稽感が生まれてくる。/…/社会階層、時代、出身地さえも、それらの特殊性自体は決して笑うべきものでないのにもかかわらず、それらすべてが潜在的な枠となる」

 この箇所からわかるように、ベルクソンは「笑い」の本質を「枠=構図の固定化」とそのズレに見い出す。たとえば数年前、キューバフィデル・カストロ議長が公の場での国民に向けた演説を終えて、拍手と歓声を受けながら席に戻ろうと歩き出したところで滑って転び、骨折してしまったことがニュース番組で報道されていた。わたしはこの映像を見た瞬間に、思わず笑ってしまった。ここで笑いが生起したのは、「政治家は真面目で威厳ある存在であり、滑って転ぶことなどありえない」、あるいは「威厳を維持するためには転んではならない」という職業に対するステレオタイプな潜在性が構図としてわたしに内属しており、それが一瞬にして「政治家も転ぶことがある」とズラされ(まさに転倒したために)、それに伴い先の構図によって維持されていた「政治家の威厳」が消失したためと考えられる。

 ならばこの枠組に照らせば、排害社の事例はどのように説明できるだろうか?彼らの中での「転倒した構図」は何か?さしあたって、それは「UFOやツチノコを見つけるより、まだ幾分は良きシナ人のほうが見つけやすいだろう」という構図である。実際には「良きシナ人のほうが見つけやすい」にも関わらず、「UFOやツチノコのほうが見つけやすい」とあえて表現する。ここに構図の意図的な転倒がうかがえる。ところが、転倒の前提条件となるこの構図すら、彼らのなかで共有されているあるグロテスクな前提に支えられている。それは「UFOやツチノコと良きシナ人は比較対象として成立する」というものである。言うまでもなく、彼らも私たちの多くも、UFOやツチノコが架空の存在であることを知っている。もしくは、「それらはほとんど存在しないに等しいものである」という社会的イメージを共有している。実際には比較対象ではないという事実、あるいは社会的イメージを知りながら、それでもあえて比較している態度の矛盾こそが彼らが前提条件として受け入れている構図である。「架空の存在であるUFOやツチノコと、実在するであろう良きシナ人を比較対象にしてしまっている」ということに、彼らのアイロニーがある。

 整理すると、彼らの笑いは二重のアイロニー=構図の二重の転倒によって生起していることになる。第一に、「UFO、ツチノコと良きシナ人は比較できない」(けれどあえて比較してみる)という構図の転倒。第二に、「存在しないUFO、ツチノコよりはまだ良きシナ人のほうが発見しやすいだろう」(けれどあえて逆だと主張してみる)という構図の転倒。この二重のアイロニーによって、金友の演説を聴く排害社会員に笑いが生じているのだ。しかし言うまでもないことだが、この笑いは差別に満ちた極めておぞましいものである。たとえアイロニーであったとしても、UFO、ツチノコと「良きシナ人」を同じ俎上に乗せて比較対象とする態度。そして、それらを比較することで「良きシナ人」の不在を主張して見せる態度に。

笑い (岩波文庫 青 645-3)

笑い (岩波文庫 青 645-3)