アイドル狂人万事快調

 運命的といっても差し支えないような唯一無二のメディア体験を、それ自体固有のものとして他の何ものにも代えることなく、全的に肯定するにふさわしい言説はいかなるものか絶えず自己言及し続けることこそが、メディアそのものの無条件なる擁護に繋がることは、ファンを自称する人びとによってどれほど自覚されているのか定かではないが、体験を時代の徴候とみなすこともなく、集合心理や社会学的帰結とみなす安易な社会反映論に還元することもなく、好きになったものについては一切の批評性を回避し、それでもなお宗教的に信望するわけでもなく、一時的な流行とみなすことでメタレベルの業界目線からその時限性を見定めようとするプロデューサー気取りを断固拒絶し、さらには昨今流行のコミュニケーション論や、個人と社会を短絡させた便利な抽象性を振りかざした若手の評論に頽落することもなく、ただ肯定するその手法をひたすら追求し続ける終わりなき探求の旅路、それはメディアの形式=表現の手法に固有のロジックを導出し、それがあたかも既得権益を保守する勢力であるかのように、形式の反復を実直に見定め、まるで呪文を唱えるかのように止めどなく語り続けることが、形式の反復たる現代のおよそほとんどの文化に共通する所作であるかのように思われるのだが、ことアイドルに関して、固有のロジックとはなにかと問いかけたならば、その起源が1982年であることに異議を唱えるものはいないだろうが、それは72年にデビューした森昌子山口百恵桜田淳子の「花の中三トリオ」、70年代中盤に一斉を風靡した元祖アイドルのキャンディーズ、76年に『ペッパー警部』でデビューし、70年代後半を席巻したピンク・レディーにも増して、松田聖子中森明菜小泉今日子堀ちえみ松本伊代早見優石川秀美ら「花の82年組」の登場こそがアイドル史において重要であるという事実に他ならず、1980年に『裸足の季節』でデビューし、同年の『白いパラソル』、翌年の『青い珊瑚礁』がTBS系列の人気歌番組『ザ・ベストテン』で連続一位を獲得し、「聖子ちゃんカット」の大流行など、アイドルの階段を駆け上り、その勢いが社会現象となった「純粋アイドル」松田聖子に対して、82年に『スローモーション』でデビューした中森明菜が、「ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)」というキャッチフレーズを捨て去るように、松田聖子に正面から反発し、「アイドルよりもアーティスト」を志向し、『サザン・ウィンド』(84)を玉置浩二に、『飾りじゃないのよ涙は』を井上陽水によって作詞・作曲され、デビュー二曲目『少女A』では、「思わせぶりに/口びるぬらし/思わせぶりに/きっかけぐらいは/こっちでつくってあげる」「早熟なのは/しかたがないけど/似たような音/誰でもしているのよ」と「早熟」を強調したことを鑑みれば、彼女が「あなたが望むならわたし何をされてもいいわ」(『青い果実』)と歌った山口百恵的な早熟少女の系譜に連なるという基本的認識がアイドル史の読みとして逸脱したものでないことは多くの人の賛同を得ることができるだろうが、こうした、南沙織松本伊代松田聖子という「純粋アイドル系」アイドルと、山口百恵三原じゅん子中森明菜という「早熟ヤンキー系」アイドルのという系譜に二分して整理されるのに対して、他の同年代アイドルと同じ「聖子ちゃんカット」だった小泉今日子が、83年にリリースした『真っ赤な女の子』から人気が急上昇して、先に述べた松田聖子的な「純粋アイドル」的な形式の反復をもっとも意図的に行った最初のアイドルである点で、アイドル史上なにより重要な存在であることは論を待つはずがなく、"新人放送作家"の秋元康によって作詞された『なんてったってアイドル』(85)では、「スキャンダルならノーサンキュー」「ちょっといかしたミュージシャンとつきあっても」「レポーターをけむにまいちゃうわ」と、「ベタなアイドルはイヤだけど、それでもやっぱりやめられない」心情が歌われた事実に顕著なように、松田聖子の「純粋アイドル系」に正面から反発した中森明菜ら「早熟ヤンキー系」とは異なり、小泉今日子的なアイドル・パロディーは一層巧みに行われたことのさらなる証左として、先の秋元的歌詞世界に加えて、86年に出版された写真集『小泉記念館』では、裸体にペンキを塗って取られた「人拓」(後に本人のものではないことが明らかになる)、同年紅白歌合戦での戦隊ヒーローの悪役のようなゴツゴツした着ぐるみなど、従来の「アイドル的」イメージを意識した上でそれを巧みに侵犯し、「こんなことまでしちゃうけど、それでもわたしアイドル」というパロディーによって独自性を獲得することで、逆説的に「アイドル的」イメージを社会に定着させる結果となったのだが、1980年代終盤に入るとバンドブームの影響もあり、アイドルブームは終焉を迎えることになったのは、ゴールデンタイムの音楽番組が相次いで終了し、アイドルは活躍の場を縮小させた事実に明らかであるし、それを考慮すれば、中山美穂南野陽子浅香唯工藤静香の新時代アイドルに与えられた「アイドル四天王」という呼称はブームの退潮による墓標名のような哀愁すら漂っているようにすら思われるが、こうした「アイドル冬の時代」に対応して登場したのはバラエティ・アイドルとおニャン子クラブであるのは疑いの余地がなく、松本明子、井森美幸森口博子山瀬まみなどのバラエティアイドルバラドル)は、80年代中盤のバラエティー番組ブームに対応して登場した妥協のアイドルに過ぎないにも関わらず、彼女らも小泉今日子にはじまる「アイドル的形式の反復」を一層強化したかたちで活動の範囲を広めることになった結果として強烈な印象を残しているのが、今や伝説となっている『鶴光のオールナイトニッポン』における松本明子のお◯◯こ発言であろうが、この「事件」によってほとんど失業状態まで追い込まれた松本が復活を遂げ、天地真理岩崎宏美太田裕美松田聖子など70年代女性アイドルをレパートリーとした「ものまね」=純粋に反復を追求する芸によって人気を博し、同様に人気低迷していた森口博子は、松田聖子菊池桃子工藤静香らのものまねで人気を博し、「バラドル」の先駆者たりえたことから理解できるだろうし、小泉今日子によって80年代前半に定率された「アイドルを反復するアイドル」という概念が、80年代中盤に彼女らバラドルによって強化され、「アイドル的反復の形式」が社会的に定着することになったもう一つの揺ぎない生成物であるおニャン子クラブは、オーディションをフジテレビ『夕やけニャンニャン』の番組内で行い、成長過程を視聴者と共有していく「プロジェクトとしてのアイドル」として最初の試みであり、プロデューサーの秋元康は、オーディションの審査員を務めるだけではなく、新曲の聴きどころ、歌詞に込められた意味、売り方のコンセプトなどの「裏話」まで番組内で隠さずに語っていたことを踏まえれば、70年代のお化け番組であった『スター誕生!』も、『夕ニャン』と同じように素人参加型オーディションを番組内で行っていた点では同じではないかという批判が聞こえるかもしれないが、それは『スタ誕』の企画構成を担当した作詞家の阿久悠が、番組のコンセプトとして、①「テレビの時代の、テレビの感性における歌や歌手やタレントの必要性」、②「つまらない上手よりも、面白い下手」をあげるように、第一に60年代末から70年代中盤までの家庭の急激なカラーテレビの普及(1966年にはわずか0.3%だった普及率が、1972年には61.1%と半数を突破。1975年には90.3%にも達した)に応答して、テレビ番組的秩序に対応できる「芸能人」をリクルートする必要があったという現実的要請と、第二に急激な社会的変化による新たなアイドル=スター像を模索し続け、彼自身の著書『36歳・青年』にて、「ぼくは、常々、スターの雰囲気とは、"手の届きそうな高嶺の花"か、"手の届かない親近感"のどちらかで、前者の代表が小柳ルミ子、後者の代表が天地真理だといっていたが、ひょっとしたら、もう1パターンあるのではないかという気持ちになってきたのである。それは、"みんなして、高値で咲かせてあげよう"という気分にさせる花である。森昌子はそれにあたらないだろうか…」と述べるように、あくまで"純粋"にアイドルを希求していたのに対して、おニャン子における秋元的手法は、従来番組外で行われるべきオーディションを審査員が視聴者の評価を代弁する形式が定着したのが80年代の最大の社会的文脈の変化である「ギョーカイ(業界)目線を内面化してテレビにツッコむ視聴者」と「ツッコむ視聴者を代弁するテレビ」の共犯関係、言い換えればテレビと視聴者の相互観察によるにるギョーカイ文法の内面化という、80年代的文脈を顕著に番組内容に取り込むことによって成功を収めたという両者の相違点を上げれば、「70年代的」阿久悠と「80年代的」秋元康が、「素人発掘」という単純な番組構成によって同一であるという指摘が的外れであることは直ちに明らかになるだろうという指摘はさておき、90年代後半からは、テレビ東京の番組『ASAYAN』のオーディションにおいてデビューが決まった鈴木あみモーニング娘。が台頭し、Berryz工房℃-uteスマイレージに続く、つんくプロデュースのアイドル集団ハロー!プロジェクトも、03年中田ヤスタカプロデュース、05年『リニアモーターガール』でメジャーデビューし、アイドルとアーティストの曖昧な境界線上を渡り歩くPerfumeも、2005年「秋葉原48プロジェクト」としてオーディションが行われ、同年に専用の劇場から出発し、現在「アイドル戦国時代」のトップランナーとしてブームを牽引するAKB48も、圧倒的な身体能力を余すことなく発揮する全力のパフォーマンスで急上昇するももいろクローバーZも、82年を最大の転換点とする「アイドル的反復の形式」を露骨なまでに、ときには醜悪といえるような強迫観念のごとく固執し、ある場合には形式を保守し、またある場合にはそれを侵犯することで再生産しながら我々が慣れ親しみ、嫌悪し、論評するようなアイドル像が形成される事実に無自覚なあらゆる言説が、熱烈なファンのMIX打ちや歓声であろうとも、インターネット上の呪詛の言葉であろうとも、ピュアな少年組合による握手会の会話の共有であろうとも、アイドルという存在を貶め、「戦国時代」という想像性の欠如した、貧困なる一時的現象を、まさに「ブーム」として埋葬することになるだろう。