現代日本とサブカルチャーに関する駄文

 90年代中盤から現在に至る現代日本の社会史と、漫画を中心とするサブカルチャーの関連。

 国内における70年代以降の展開は、高度経済成長に伴う消費社会の結果として、社会の流動性が上昇した過程として捉えられる。これらの進行により、「大きな物語の終焉」といわれるように、「何が正しいのか」を巡る価値判断の準拠枠組みが後退し、「不安な個人」が顕在化する時代が訪れる。「後期近代の眩暈」と呼ばれるこうした傾向は、90年代以降の社会史を概括すればわかりやすい。経済においては「失われた10年」といわれる長期の不況、政治では93年の自民党の野党転落から小党乱立の混乱、社会では95年の阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件、特に97年以降問題化する少年犯罪・援助交際の社会問題化。こうした社会不安によって、90年代中盤以降はメンヘラーに代表されるような精神危機に陥った若者の増加、空虚な時代性を穴埋めするかのようなナショナリスティックな言説の復活も問題化した。

 こうした「不安の時代」における社会的な雰囲気は、サブカルチャー如実に現れた。代表的なのが「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群である。漫画とアニメ作品にて顕著であるこのジャンルに共通する特徴は、「特定個人の運命」と「世界の運命」の短絡を中心としてストーリーを展開させることにある。『新世紀エヴァンゲリオン』では、人類補完計画発動後、碇シンジの個人選択により、すべての人間がひとつに融合し、他者と関わることによる痛みを感じない世界が完成し、『涼宮ハルヒの憂鬱』では主人公ハルヒの微細な心境の変化が、意図せざるものとして世界の破滅をもたらす。

 少女マンガにおいては、90年代以降ブームになる極めて記号的・構成主義的な演出、あるいは「三角関係」に代表される限定された登場人物間での微細な人間関係を「ドタバタコメディー」とモノローグで描く傾向の作品が大量生産された。この傾向は2000年代中盤にブームになる「純愛ブーム」の下地を形成する。「純愛ブーム」は登場人物の生死などが極めて記号的に登場し、「困難を乗り越えながらも恋愛を達成するわたし」を描く作品群の評価を指す。『世界の中心で愛を叫ぶ』『僕は妹に恋をする』『恋空』ら作品や『野菊の墓』の再評価に代表される。

 アニメでは、95年の『新世紀エヴァンゲリオン』以降2000年代初頭まで続いた「エヴァ症候群」によって、「セカイ系」の傾向を引きずったアニメ作品が大量に生産された。例えば『ラーゼフォン』や「月刊少年エース」に連載されたような、自我の危機に陥った10代中盤の主人公、学園モノ的共同性、精神世界の描写、ポルノグラフィを共通の特徴とする作品である。

 こうした「セカイ系」作品のブームは、前述した現代日本の社会史としては必然でありながらも、サブカルチャー史としては特殊さ・不気味さを感じさせるものである。これは80年代中盤以降にブームを起こした漫画作品と比較すると顕著である。例えば「アニメージュ」に連載された宮崎駿風の谷のナウシカ』、大友克洋AKIRA』。これら作品は、徹底した観察や物理法則を考慮した劇画により、国家間戦争・トライブの抗争などをリアリスティックな演出で表現することで、多くのファンを獲得し、世界的に高い評価を得た。『ナウシカ』はコミックの最初に見開きの地図が付録されているように、壮大な世界観を「俯瞰」し、国家・民族・宗教性をテーマとすることで、「大きな物語」を描ききった。

 80年代のSF漫画に見られるようなこうした「物語性」は2000年代の「セカイ系」作品にて短絡した「個人運命」と「世界運命」の中間世界にフォーカスすることに、その特徴がある。同様の作品として『北斗の拳』『ファイブスター物語』に見られるような「ハルマゲドン"後"の共同性」ものも挙げられる。

 「中間集団」「共同性」が、80年代SF漫画では中心的に扱われていながら、90年代以降の「セカイ系」作品では消失したという事実は、前述した現代日本の傾向と対応している。頻繁に指摘されるように、核家族化や少子高齢化の進行は、戦後日本の中核的な共同性であった「お隣さん」や「町内会」の機能弱体化も重なり、地方の過疎地域を中心として「介護難民」や「買い物難民」として問題化した。一部の保守的論者はこの問題への処方箋として、家族や町内会など「古い共同性」を復古することを提案する。しかしあらゆる社会条件は、この提案を拒否している。わたしたちは「共同性は必要」でありながら、「古い共同性は断念」している環境におり、こうした現状を克服するには、入室・退出が比較的容易な「選択的共同性」を作り出す必要がある。時間的・空間的・関心的・目的的条件に応じて、問題を抱えた個人が気軽に参加でき、交流を深めることによって、悩みを率直に相談し、孤独感を解放できる関係が準備されていることはが望ましい。

 2000年以降に登場した漫画作品には、「古い共同性」とは一線を画す、「ゆるい共同性」を描いた作品が登場している。例えば吉田秋生海街diary』は、三姉妹と中学生の異母妹すずの交流を、鎌倉を舞台にゆっくりしたテンポで描く。やまだないとの『西荻夫婦』は、漫画家の夫と暮らす共働きの主婦ミノワの、退屈ながらも暖かい日常を描いた作品だ。他にもフランスの漫画家フレデリック・ボワレによって企画された『JAPON』は、日仏両国の著名な漫画家に日本国内を旅行してもらい、そこで体験した内容をエッセイ風に描き出した意欲作である。収録作のひとつ、エティエンヌ・ダヴォドーの「サッポロ・フィクション」は洞爺湖の風景を美しく描いている。

  「退屈な日常」を「憂鬱な肯定」によって、共同性を見事に描き出したこれらの作品は、現代日本が抱える問題点に合致している。「ゆるい共同性」が示唆する柔らかさは、多元的な「選択的共同性」を想像し、作り出す必要がある私達に大きなヒントを与えてくれるに違いない。