チャンチョルス監督『ビーデビル』感想

 まったくの偶然なのだが最近鑑賞した映画に女性の受難を描いた作品が多い。二人の「母親」の愛情に苦しむ女性を描いた『八日目の蝉』、トップダンサーとしてのプレッシャーから自己破壊的欲動を顕在化させる『ブラック・スワン』。しかし抜群に面白かったのが韓国の新進気鋭の監督チャン・チョルスによって制作された『ビーデビル』である。

 ぼくは以前から「いま韓国映画が面白い!」としつこく繰り返してきた。なぜ韓国映画は面白いのか?それは極限状況を描くことによってむき出しになる人間の倫理に迫真しているからである。

 『ビーデビル』のストーリーはこうだ。トラブルから職場を解雇されたソウルのOLヘウォン(チ・ソンウォン)がかねてから手紙にて誘いのあった故郷である孤島に帰郷する。わずか六戸の家庭しかいない寂れた島で、ヘウォンは幼なじみの女性ポクナム(ソ・ヨンヒ)に再開する。

 1週間程度のバカンス気分で島を訪れたヘウォンであったが、次第にこの村の異常性に気づきはじめる。親友のポクナムは、夫はもちろん他の村民からも奴隷のように扱われ、あからさまな暴力の対象になっていたのだ。ポクナムへの暴力の理由は2つある。第一に、幼少期、ヘウォンと二人で遊んでいる際に彼女をからかう4人の少年(彼らのひとりは後にポクナムの夫になる)を守るために、不幸にも少年のひとりを死なせてしまう。第二に、ポクナムの父親のわからぬ娘の存在を受け入れ、10歳まで育てた夫と村民に対する感謝である。村の長老の老婆はじめ村民たちは、この2つの理由ゆえにポクナムへの異常な暴力を「掟」として正当化している。

 しかし島の猟奇性はこれにとどまらない。ポクナムの夫はその10歳の義理の娘と性的関係をもっており、この事実に対して島民たちは先の2つの理由により「しかたがないこと」として諦め、見て見ぬふりをしていた。

 事態の深刻さに気がついたヘウォンは、警察に連絡を試みたり、ポクナムと娘を島外に逃がそうと努力するが、いずれも失敗に終わる。そして島民による暴力はついに最悪の悲劇をもたらす。逃亡に失敗したポクナムを虐待する父親が、彼女をかばおうと足にしがみついた娘を力づくで殴り飛ばし、娘は後頭部を岩にぶつけて死んでしまうのだ。

 深い悲しみと喪失感に茫然自失とするポクナムであったが。ついに究極の決断を下す。休息をとらず黙々とじゃがいも収穫に没頭したポクナムはふと太陽を見上げる。数秒の沈黙の後、近くで談笑する老婆たちに近づき、手に持っていた鎌を振り下ろし、彼女らを次々と殺害し始める。「悪魔になった」彼女は老婆のみならず、島の長老、男達、そして傍観者に過ぎないヘウォンすら殺害対象として襲い続ける殺人マシーンに変身する。

 ネタバレするので内容についてはこのあたりで留めよう。

 何がチャン監督をこのあまりにも凄惨な映画の制作に駆り立てたのだろうか?パンフレットによるとチャン監督が本作をつくるきっかけになった二つの実際に起こった事件が紹介されている。

 第一の事件。1992年、21歳の女子大生キム・ボウンは、恋人キム・ジングァンに別れを告げる。ジングァンが理由を問いただすと、彼女は過去の事実を告白する。ボウンは9歳の時から義理の父であるキム・ヨンホから性的虐待を受けてきた。妹や母親がいる前で、父親はポルノビデオを見せながら、彼女にビデオと同じ行為をするように教養していたのだ。それを知ったジングァンは検事局総務部部長であるその義父キム・ヨンホの所に向い、恋人のボウンを自由にするよう懇願する。しかしヨンホは「私はお前たち二人を逮捕することもできる」と傲慢に言い放った。激怒したジングァンはヨンホを殺害する。彼の行為は正しいものだろうか?

 もうひとつの事件。2004年、2週間後にクリスマスを控えたある日、密陽市の10代女性に対する性的暴行事件が韓国内に衝撃をもたらした。女子中学生パクが、別の中学生から1年以上にわたって性的暴行を受けていたのだ。

 ふたつの事件はそれだけでおぞましいものである。だがもっと恐ろしいのは、キム・ヨンホの犯罪行為を、ボウンの苦しみをただじっと座って見ていただけの親戚、隣人、同僚が30人以上いたという事実である。女子中学生パクのケースでは、100人以上の人間や大半の市民が公聴会で明らかになった。加害者側の親たちは「うちの息子は事件と関係ない。パクに誘惑されたんだ」と声を揃えて主張した。 

 2つの事件と『ビーデビル』が私たちに問いかける究極の問い。それは「本当の暴力とは何か?」「本当の愛とは何か?」「本当の正義とは何か?」である。

 フランスの著名な哲学者のジャック・デリダは「正義は法の外部にある」といった。遵法か違法か、既存の法では対処できない例外状態が現れたときに、本当の正義とは何かが問われる。『ビーデビル』で描かれた暴力の前に法は無力である。劇中で警察への通報を訴えるヘジョンの主張は村民によって一笑に付される。船で島を巡回する警察官すら、贈り物や金銭であっさりと買収されているのだ。法が機能しない極限状況において、正義とは何か、私たちはどのように行動すべきか。

 チャン監督はこう私たちに問いかける。「丘が怖いのはヘビがいるからではない。ヘビを隠す草や木があるからだ。草原にいるワニは怖くない。沼地に潜んでいるワニが怖いのだ。悪魔が隠れているのは、壁でも、木でも、倫理でも、法律でもない。我々自身であり、我々の隣人なのだ。この映画で暗闇から逃げ出そうとする女性の物語を通して、僕は心から問いかけたいと思った。”あなたは思いやりのある人間ですか?それとも思いやりをもたない人間ですか?”」。

 殺害にいたるまでの限界までの暴力をヘウォンと同じ傍観者の視点で鑑賞していた観客にとって、悪魔となったポクナムによる村民の殺害シーンはカタルシスを感じさせる。しかし大量殺人が道義的に反しているのは明らかである。私たちは考えさせられる。本当の正義とは何なのかと。

 法が機能しない極限状態における正義は近年の韓国映画で繰り返し言及されているテーマである。パク・チャヌクの復讐三部作はその典型だ。あるいは『許されざる者』にはじまるクリント・イーストウッド監督の一連の作品も同じテーマを追求している。これらの作品についてはあらためて考えたい。メモ書き程度の乱文だが、とりあえずここまで。