泉順太郎「『シネマ』における創造的仮構とベルクソン哲学」 『立教映像身体学研究』4,59-81 (2016)

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70「ベルクソンとの差異はここにある。一言で言えば、潜在性の語が持つ時間論的価値が、両者全く異なっているのである」
71「ベルクソン自身の文章と比較してみると、明らかに
その主題がずれているのがわかる。ドゥルーズはどんなときも、ベルクソン哲学の根本を、潜在的な過去自身の領域としての宇宙的記憶を存在論として語ること、に見ている。この領域はあらゆる人間、生命をその内に含んだ宇宙―持続であり、の自己変化運動として、宇宙的記憶がその中の無数の過去を過去同士で変化させ続けている」
ベルクソン自身、確かに過去自体の潜在的領域を認めている。だがそれに、それ自身の価値はない。それは、感覚行動的生の次元を、我々の実在の根幹で、潜在的過去の力動が現働化しながら創出しているものとして知らせる限りで価値を持つ」
「しかしドゥルーズが見るベルクソンはそうではない。真の現実として潜在的過去を肯定し、その相互現働化運動、即ち生へ収縮する現働性ではなく、潜在性同士が相互に参照し合い、収縮させ合い、互いを生み出し続けているその現働性を肯定する者なのだ」