池上賢「『週刊少年ジャンプ』という時代経験ー解釈枠組みとしてのマスター・ナラティブ」『マス・コミュニケーション研究 』0(75) 149-167 2009年7月

pdf

談話分析の可能性―理論・方法・日本語の表現性

談話分析の可能性―理論・方法・日本語の表現性

マンガの社会学

マンガの社会学

インタビューの社会学―ライフストーリーの聞き方

インタビューの社会学―ライフストーリーの聞き方

ライフストーリー・インタビュー―質的研究入門

ライフストーリー・インタビュー―質的研究入門

ニッポンマンガ論―日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論

ニッポンマンガ論―日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論

『ユリイカ 2015年10月号』「特集=マンガ実写映画の世界」メモ

バクマン。』『新宿スワン』『進撃の巨人』『寄生獣』『俺物語! ! 』『海街diary』・・・マンガ作品の映画化がいままで以上に熱を帯びている。誌面という地平を乗り越え、スクリーンへと移し換えられることで見えてくるマンガの新たな可能性を見出す特集。

■“マンガ×映画”の結節点
バクマン。』と画面の更新 / 大根 仁 聞き手=編集部
モノたちの喧騒の場 マンガの実写化が映画にもたらすもの / 渡邉大輔
「マンガ的」リアリズムとキャラクター そしてもう一つの「映画的手法」について / 三輪健太朗
■生身というペンタッチ
キャラクターの演算 リョーマからアルミンへの試行 / 本郷奏多 聞き手=編集部
虚構の命の作り方 漫画表現論の先端から / 泉 信行
二〇〇二年、『ピンポン』から始まったこと / 藤津亮太
「マンガ」と「映画」と綾野剛の「身体」 「インターフェイスとしての俳優」について考えるためのメモ / 篠儀直子
■マンガに内在するもの
映画は時間を生きる 『るろうに剣心』の革新 / 大友啓史 聞き手=編集部
るろうに剣心』三部作における〈拡散する文化(ダイバージェンスカルチャー)〉 / 石岡良治
「マンガの実写化」と「マンガから生まれた映画」 / 岩下朋世
ヒロインが「敵」になるとき 赤本単行本から別冊付録へのリメイクに見る「映画」らしさ / 森下 達
消費と国籍と様式 小田切
■映画的瞬間の到来、あるいは所与の偶然
隣人を撮る 『翔んだカップル』と『妄想少女オタク系』 / 堀 禎一+やまだないと
大根仁と「映画的」な残余 / 石川義正
他者の物語 堀禎一の高校生三部作について / 伊藤洋司
マンガは映画を拡張する 三池崇史のマンガ映画化についての一考察 / 三浦紗良
映画による聖地巡礼 『海街diary』、『グーグーだって猫である』、『櫻の園』/ 門林岳史
■映写される光の彼方へ
剛田猛男の疾走 / 『俺物語!!』という街並み 河合勇人 聞き手=編集部
「少女マンガ×映画」論 減点法的鑑賞を超えるために / トミヤマユキコ
マンガ・プロジェクション 『忍者武芸帳』と昭和期日本の静止画映写文化 / 鷲谷 花
運動と感情への接近 アニメーション『惡の華』の試み / 石田美紀
■“マンガ×映画”のゆくえ
マンガ×映画カルチャーを知るための解説と作品ガイド / 渡邉大輔
■今月の作品
堺 俊明・鈴木卓哉・真田総子・赤木祐子・サトウアツコ 選=藤井貞和
■われ発見せり
それらしさの構造 / 高田敦史

赤川学著『セクシュアリティの歴史社会学』(1999)メモ

セクシュアリティの歴史社会学

セクシュアリティの歴史社会学

明治以降近代日本のセクシュアリティはいかに形成され、どのように変容したか。重層する膨大な言説資料を渉猟、分析することで、日本のセクシュアリティ言説形成過程に見出された一定のパターンを、オナニーに関する言説に焦点をあてて検証する。また、性に対して与えられてきた2つの意味論、すなわち「性=本能論」と「性=人格論」がどのように拮抗し交錯して慣習や制度を形成してきたかを素描する。哲学、理論社会学、フェミニズムなど現在までのセクシュアリティ研究の成果に理論的検討を尽くしたうえで、考えられる限りの資料を検証する方法論の確立を目指す。これはセクシュアリティの歴史社会学の誕生宣言である。

[理論編]
第一章 セクシュアリティの概念定義をめぐって
 1 「セクシュアリティ」という概念
 2 <本質主義・対・構成主義>再考
 3 ジェンダーセクシュアリティ概念定義の本質的困難
 4 セクシュアリティ概念の言語論的転回
 5 無定義概念としてのセクシュアリティ
第二章 歴史社会学としてのフーコー
 1 フーコーインパク
 2 近代主体の系譜学――フーコーの研究遍歴
 3 セクシュアリティの歴史
 4 フェミニズムフーコー
 5 言説分析という方法
 6 言説分析への援軍
第三章 セクシュアリティの歴史社会学の方法基準
 1 社会学における、テーマとしての「性愛」の浮上
 2 テクスト・クリティークについて
 3 言説の「質」の問題
 4 性愛の理論化
 5 セクシュアリティと主体性の理論図式
 6 日本社会診断の問題
 7 セクシュアリティの歴史社会学への出立

[歴史編]
第四章 開化セクソロジーエピステーメー
 1 『造化機論』の登場
 2 開化セクソロジーに対する評価
 3 開化セクソロジー・ブームの全貌とその問題系
 4 処女膜の近代
 5 開化セクソロジーの情欲論
第五章 オナニー有害論の内発的発展
 1 上野―小田論争で残された問題
 2 開化セクソロジーにおけるオナニー言説
 3 近代以前の日本社会におけるオナニー観
 4 オナニー有害論の内発的発展
第六章 オナニー有害論の言説化
 1 開化セクソロジーとの断絶
 2 医学界の成立と『東京医事新誌』誌上のオナニー論争
 3 オナニー言説の領域分化
 4 新興学界・版図拡大戦略としてのオナニー有害論
第七章 「性欲」の誕生と通俗性欲学のエピステーメー
 1 「性欲」という概念
 2 大拙の「性慾論」
 3 通俗性欲学のエピステーメー
 4 開化セクソロジーと通俗性欲学の断絶
第八章 制約のエコノミー問題
 1 発動し、処理せねばならぬものとしての性欲
 2 性欲のエコノミー問題
 3 夫婦間性行動のエロス化
第九章 「強い」有害論
 1 オナニー有害論に対する社会学的説明
 2 オナニー有害論/無害論の恣意的線引き
 3 「強い」有害論の言説編制
 4 生きられた現実としての「強い」有害論
 5 オナニー有害論のナショナリズム
 6 性欲を統御する主体と修養・立身出世
 7 オナニー有害論の階級/階層性
第一〇章 「弱い」有害論
 1 「弱い」有害論の言説編制
 2 「万病の基パラダイム」の終焉
 3 オナニー有害性のラベリング理論
 4 オナニーの規制緩和オナニストの囲い込み
 5 統計のトリックとレトリック
 6 養生訓パラダイムとフロイティズムシンクレティズム
第一一章 性欲自然主義と性=人格論
 1 性欲自然主義
 2 もう一つの性欲論:性=人格論
 3 性=人格論の源流1:恋愛至上主義
 4 性=人格論の源流2:純潔教育
第一二章 性欲のエコノミーの変容
 1 「セクシュアリティの近代」の階級/階層問題
 2 澤田順次郎主幹・性雑誌の読者層
 3 戦時期・戦後期の連続/不連続問題について[中間考察]
 4 性欲のエコノミー秩序の完成態
 5 オナニーの規制緩和
 6 純潔/処女/童貞規範の変容
第一三章 オナニー至上主義とセックス至上主義
 1 オナニー経験の変容
 2 医学部内のオナニー必要論
 3 オナニー言説の哲学化・文学化
 4 オナニー言説の大衆化
 5 オナニー至上主義とセックス至上主義
 6 女性のオナニー論
 7 性=人格論の分裂
第一四章 性欲のエコノミーから親密性パラダイム
 1 オナニー有害論の生成と消滅
 2 セクシュアリティに関する二つの意味論
 3 同性愛言説の変容
 4 性欲のエコノミー秩序の崩壊
 5 親密性パラダイム
 6 夫婦間性行動の脱エロス化
 7 性=人格論という梏桎

p.38「しばしば社会学・社会思想の「偉人」たちの言葉・テクストが過剰に神聖視された上で、論理演繹的な概念体系が前もって構築され、それに基いてデータが解釈される」「グレイザー&ストラウスのいうところの「誇大理論(grand theory)」、佐藤郁哉いうところの「天下り理論」に相当する」

データ対話型理論の発見―調査からいかに理論をうみだすか

データ対話型理論の発見―調査からいかに理論をうみだすか

フィールドワーク―書を持って街へ出よう (ワードマップ)

フィールドワーク―書を持って街へ出よう (ワードマップ)

p.41, 395 注4「近縁の文学研究者によるセクシュアリティ研究としてもっとも刺激的なのは、小谷野[1997a][1997b]である」
男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー

男であることの困難―恋愛・日本・ジェンダー

「男の恋」の文学史 (朝日選書)

「男の恋」の文学史 (朝日選書)

p.73, 396 注5 「「一次理論」とは、盛山和夫による概念である。盛山によれば「行為者自身が自らをとりまく世界について抱いている了解の内容」と定義されている。それは社会科学が探求しようと志向する超越的「二次理論」と対になっている。盛山によれば、一次理論は、当該社会に内属してしばしば当該社会を説明するが、これに対して二次理論は、社会的世界を一次理論が構成している仕組みを対象として探求するものである」
制度論の構図 (創文社現代自由学芸叢書)

制度論の構図 (創文社現代自由学芸叢書)

p.369 オナニーの「強い」有害論全盛期(1870年代から1940年代頃まで)→「弱い」有害論全盛期(50年代から60年代まで)→必要論全盛期(70年代以降現在まで)
p.373 (1)「性欲=本能論から性=人格論へ」。前者では性欲は、「自己や主体にとって内側にありつつ外部的であるような両義的な実在と観念される」。後者では、「性は本能ではなく、人格を構成する中核的な要素とされる」。
(2)「性を医学やセクソロジーの枠内で語ることにリアリティが存在するという、開化セクソロジー以来存続してきた構造」の崩壊。「いまや性は、大衆的な文学や若者向けの雑誌、エロ雑誌の中で、医学者のみならず文学者や評論家や、市井の人々によってさまざまな角度から語られる対象となる」
(3)「オナニーよりも、売買春よりも、婚前交渉よりも、同性愛よりも夫婦間性行動のほうがまし」という「性欲のエコノミー秩序」は、70年代以降、社会的規範の緩和や強化の説明変数としては効きが悪くなる。それに代わり、「親密性パラダイム」が決定的に重要になる。

伊藤剛『テヅカ・イズ・デッドーひらかれたマンガ表現論へ』(新書版)メモ

 2014年。原書は2005年出版。原書は出版直後に読んだので、改訂部分を楽しみながら久しぶりに再読。「歴史的空白を「キャラとリアリティ」の観点からとらえ直すことで、マンガ表現論の新たな地平を切り開いた名著」らしいが、なにぶんマンガ研究についての知識が不足しているので、そのインパクトはよくわからず。

 とりあえず、原書出版05年以降のマンガ研究・評論を大まかにフォローしておきたいので、新書版あとがきで挙げられている主要なマンガ研究・批評関連本を。

泉信行漫画をめくる冒険』(ピアノ・ファイア・パブリッシング、2007)同人出版
リンク

まんが史の基礎問題 ―ホガース、テプフェールから手塚治虫へ

まんが史の基礎問題 ―ホガース、テプフェールから手塚治虫へ

少女マンガの表現機構―ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」

少女マンガの表現機構―ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」

マンガと映画

マンガと映画

フランスの理論研究書、著作は次々と翻訳が。
マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか

マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか

ユリイカ』の特集号

ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線

ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線

ユリイカ2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開

ユリイカ2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開

以上、新書版あとがきより。以下、本編で言及、かつ気になった本。
p.17

マンガ産業論

マンガ産業論

p.107
聖母の出現―近代フォーク・カトリシズム考

聖母の出現―近代フォーク・カトリシズム考

p.162.既読
アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題 (角川文庫)

アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題 (角川文庫)

 そこまで読む気はないが、4-3『新宝島』と「同一化技法」論争に関連して。

マンガ表現学入門

マンガ表現学入門

収録、宮本大人「マンガと乗り物〜「新宝島」とそれ以前〜」

 コマを突き破るような表現に関連して。
p.244. 夏目房之介「間白という主張する無」

マンガの読み方 (別冊宝島EX)

マンガの読み方 (別冊宝島EX)

 映画との関連性について。
p.251

映画理論講義―映像の理解と探究のために

映画理論講義―映像の理解と探究のために

p.256. スティーブン・ヒース、夏目康子訳「物語の空間」
「新」映画理論集成〈2〉知覚・表象・読解 (知覚/表象/読解)

「新」映画理論集成〈2〉知覚・表象・読解 (知覚/表象/読解)

 少女マンガとの関連性について。
p.274. 足立典子「これは仮定だけど、そんなときはぼくー少女まんがと同性愛」

マン美研―マンガの美/学的な次元への接近

マン美研―マンガの美/学的な次元への接近

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

ホロン革命

ホロン革命

『鋼の錬金術師』と「等価交換」の哲学

 最近、荒川弘鋼の錬金術師』のコミックを全巻読破した。少年漫画の伝統的形式を踏まえながら、それを破壊することなく緻密に練られた世界観や繊細な人物描写などの卓越した演出を維持することで、従来の凡庸なバトル漫画をはるかに超える完成度に仕上がっており、一気に読みきってしまった。しかし本作のストーリー展開や世界を支える根本的ルールについて、どうしても納得できない点が数カ所あった。今回はそれについて述べたい。

 大まかに分類してしまえば、疑問は二点ある。第一点は、物語中盤から終盤にかけて、主人公のエドとアルを凌ぐほどの活躍を見せる二人、ホムンクルス達の創造主である「お父様」こと「ホムンクルス」(以後、「お父様」のホムンクルスは「ホムンクルス」とカッコつきで表記。「ホムンクルス」によって生み出された子供たちは、ホムンクルスとそのまま表記)と、エド、アルの父であるホーエンハイムの対立点について。第二点は、物語のラストにてエド錬金術の能力を放棄した理由についてである。今回は前者について扱うこととする。

 「ホムンクルス」とホーエンハイムの両者はハガレン作中において、他の錬金術師をはるかに超えた強力な錬金術を扱うことができる。その理由は、彼らが賢者の石を体内に取り込み、それをエネルギー源として錬成を行なっているためである。物語の中盤に明らかになることだが、彼らに内属する賢者の石は、膨大な人数のクセルクセス人から錬成されており、「ホムンクルス」やホーエンハイムは賢者の石に込められた数十万、数百万に及ぶ彼らの生命を消費することによって、ほとんど無尽蔵(と思われるほど)に錬金術を扱うことができる。

 ところが終盤における両者の戦闘シーンにて、両者はほとんど同じ能力を有していながら、微妙に異なる特徴があることが明らかになる。第一に、ホーエンハイム錬金術はアメストリスの「錬金術」とは異なり、大地や生命の気の流れを利用するシン国の「錬丹術」に似ている。そのため「ホムンクルス」の錬金術封じが効かないこと。第二に、(こちらが重要なのだが)生命の能力への等価交換であるという点では、賢者の石由来の能力である二人の錬金術はまったく同じはずだが、ホーエンハイムに限っては、生命を消費されることについて賢者の石の材料にされた人びとが納得しているという事実が描かれているのだ。この点については「体内の53万6329人分の魂との対話を完了させ、『お父様』を倒すための共闘関係を築いていた」との説明も加えられている。

 しかしこの説明はにわかには納得しがたいものだ。先に述べたように、彼らに内属する賢者の石は、国家全土を用いた国土錬成陣によって錬成されたクセルクセス人の生命を凝縮することで精製されている。それをいかに利用しようが、圧倒的暴力のうえに成立しているという事実は動かしようがない。賢者の石の使用による生命消費の等価交換は、消費される命が「納得」した程度で肯定されるものだろうか?つまり「ホムンクルス」の(擬似)無限錬金術は望まない人びとを錬金術のために生贄にしているため認められないが、その点、ホーエンハイムは彼らに許可をとっているために容認されるということか?この点に関して、「対話」によって「了解」を得たとするホーエンハイムの説明は欺瞞めいているように思われる。仮に賢者の石に錬成された人びとが、錬金術のエネルギーとして利用されることにその場では納得してとしても、生命を消費している事実、さらには賢者の石を生み出すために大量殺戮された事実には変わりないのだから。

 考察を進めるために、本作の中心概念である錬金術について考えよう。『ユリイカ』の荒川弘特集号にて、星野太は錬金術マルクス経済学の知見になぞらえて考察する(『ユリイカ』2010年12月号「星野太「等価交換」のエコノミー 『鋼の錬金術師』の経済学的パラダイム」)。結論から述べれてしまえば、ハガレンの世界において賢者の石は資本の蓄積手段という事実であるというのが星野の主張である。どういうことか順を追って確認しよう。

 そもそもハガレンの世界にて錬金術が成立するためには、等価交換の原則を満たすことが最低限の必要条件である。等価交換とは、交換対象となるAとBの価値が同一であるとする双方の合意によって可能になるのだ。つまりa氏がAを所有しており、b氏がBを所有しているならば、a氏、b氏がともにAとBが同一の価値があると判断しなければ「等価交換」は成立しない。これはごく単純な経済原理である。たとえば、エドがユースウェル炭鉱の労働者に持ちかける「炭鉱の権利書と一宿一飯」という破格の「等価交換」が成立するのは、取引主体であるエドと炭鉱労働者の双方が、「両者が等価である」と(形式的であったとしても)みなすことが必要なのだ。それゆえに等価交換のコンセンサス形成はどうしても恣意的にならざるをえない*1。実際のところ、先の例では「炭鉱の権利書と一宿一飯」が等価であるという双方(とりわけエド)の恣意に支えられている。この原理のもとでは、交換対象が等価であることが、その場その場の恣意的判断によって評定されており、時間という概念が存在しない。これを「無時間的な交換のパラダイム」と名付けよう。「無時間的な交換のパラダイム」においては時間の概念がない以上、「資本の蓄積」という概念が存在しないことを意味する。

 ところがこのパラダイムは物語中盤から変化する。それは資本としての「魂」の登場、さらにその資本の蓄積を可能にする賢者の石の意義の更新である。物語序盤では等価交換の原則を無視(あるいは超克)した無限のエネルギー源として表象されていた賢者の石だが、実際には石の中に貯めこまれたエネルギーを貯蓄する、いわば銀行のような存在であったことが明らかになる。既に述べたように、賢者の石は、序盤でこそ「等価交換」の原則を超えた無尽蔵な錬成を可能にする道具として登場するが、実際には「等価交換」の原則のただなかにある存在に過ぎないことが明らかになる。既に述べたように、賢者の石はクセルクセス人を素材に錬成したものであり、彼らの命を「魂」という資本に変換して貯蓄されたエネルギーを、銀行からお金を下ろして消費にまわすようにして、錬金術に利用していた。言い換えれば、このエネルギーもまた有限であり、自身が賢者の石であるホーエンハイムや「ホムンクルス」、そしてホムンクルスの子供たちであっても、体内の賢者の石のエネルギーを使い果たせば力尽きてしまう。賢者の石の登場により、「資本の本源的蓄積」という原理が導入され、等価交換の原則に時間性が与えられたのだ。ここにて、「無時間的な交換のパラダイム」は「時間内的な交換のパラダイム」に移行したことになる。星野は賢者の石によって、全国民の資本蓄積が可能になった「ホムンクルス」やホーエンハイムを「大資本家」になぞらえる。彼ら等価交換の原理を超越したように見える達人ですら、実のところその原理の只中に残りながら、賢者の石による「貯蓄」という手段を導入することによって無類の強さを発揮していたことになるのだ。

 さて、当初の疑問は、ともに体内に賢者の石を取り込み、体内の大量の生命を消費しながら錬金術を扱う「ホムンクルス」とホーエンハイムの差異であった。確かに両者は資本として体内に蓄積した生命=魂の使用について、異なる考え方をもっている。「ホムンクルス」は単なる道具として、ホーエンハイムはひとりの人間として。しかしその両者が結局のところ同一の等価交換の原理の枠内にとどまり、大資本家として強力な錬金術を使用して生命消費している事実には変わりない。したがって両者の対立点は極めて曖昧になってしまう。しかし、物語はこの問題を宙吊りにしたまま進行する、その点では、エドとアルの兄弟と父親の和解、お互い強力しての「ホムンクルス」=全能なる原父の殺害というストーリー展開は、本来的対立を棚上げにした印象を受けるし、実に陳腐である。

 付言しておけば、この問題設定においては、戦闘の終盤において「ホムンクルス」はアメストリス全国民の魂を錬成した賢者の石を取り込み、「戦闘力」50万程度のホーエンハイムをはるかに超える資本をストックして「神」の力を超えようと試みる。したがって、二人の間では魂の資本に変換された人びとの数、殺害人数がまるで異なるのではないか、という反論が考えられるが、これは問題にならない。こうした疑問は極限の状況において、より多くの生命を救済するほうがベターであるとして、命を数値変換する功利主義的な立場に根ざしている。しかし、わたしの関心はその点ではない。「何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない」という等価交換の原則を遵守した上で、その暴力性を等閑視して大資本家が正義を戦わせている。その構造そのものに違和感があるのだ。

 議論を進めよう。なぜわたしは、「ホムンクルス」とホーエンハイムという物語のほんの一部分に過ぎない対立点を殊更取り上げたのか。それは第二の疑問にて提示する問題、本作の核心につながる問題と齟齬をきたしているように思われるためである。錬金術の枠内にとどまりながら、大資本家として暴力に加担した「ホムンクルス」とホーエンハイム。彼らを父として背中を追いながら、最終的には「等価交換」の原則という暴力を放棄することを選択したエド。「ホムンクルス」とホーエンハイムエドとアルの間の断絶に比べれば、「ホムンクルス」/ホーエンハイムの断絶はほとんど存在しないに等しい。にもかかわらず本作は、なぜ後者の対立にこだわり、前者を軽視したのか。この点については、エド錬金術の放棄を事例にして、等価交換の暴力性を資本の原理による暴力性に結びつけて考えなければならない。


鋼の錬金術師(1) (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師(1) (ガンガンコミックス)

*1:もっとも、作中の錬金術においてこの合意が術者と誰の間で交わされているのかも論点かもしれない。さしあたっては神との交渉だろうか。

サバイバル・サバイバル

 群像劇の舞台としては、似つかわしくないほどに平穏で平凡な日常を今日も過ごそうとしている少年少女が多数登場したら、ひとまず用心してかかるにこしたことはない。お互いはほとんど縁ないとおもわれる多くのクラスメイトにコマがフォーカスしたら、なお一層、警戒を強めるべきだろう。彼らは一癖も二癖もある人物ばかり。いかにも主人公といった風貌の熱血漢、取り巻きに崇めれる美形の不良、一匹狼の黒髪ロングの謎めいた美少女、ぶつくさと独り言をつぶやくコミュ障のオタクなど千差万別である。

 地方都市にありがちな、20年遅れのヤンキー文化を躱し、生徒に柔軟を示しつつもパターナリズムを崩さない教師との素朴な会話を交わしながら、彼らは今日も変わらず退屈な一日を終えようとしている。しかし、そのような楽観的な憶測は、いとも簡単に放棄せざるを得ないだろう。秩序の破綻は常に不意に訪れるものだ。それはある場合には世界を崩壊させるような大災害であり、別の場合には臣民の徹底管理を目論む軍事政権によるプログラムであり、もしくは人知を超えた能力者による積年越しの革命かもしれない。平穏な日常を過ごしていた少年少女は、理不尽にもこれら極限状況に巻き込まれ、厳粛なルールに基づいたサバイバルゲームへの強制参加を余儀なくされるだろう。彼らのひとりとしてこのゲームから逃れることはできない。すべてはここからはじまるのだ。

 常人にはおよそ理解できないほどの限界状況におかれながら、彼らは読者が驚くほどに冷静を保つことができる。彼らが最優先ですべきことはなにか。まずは安全の確保、危険の予測、生存のために必要な武器、食料の確保である。とにかく最低限の足場を固め、「オトナ」が設計した理不尽なゲームに適応することが喫緊の課題である。主人公に指名された熱血漢は、物語を進行させるために最低限必要な少人数グループを形成するべく、命がけで周囲を説得する必要がある。彼は確信することだろう。これから始まろうとしている物語で意義ある役割を与えられているのは、ごく数人であり、俺はそれが誰であるのか周到に見定めなければならない。実際のところ、クラスメイトはバラエティーに富んでおり、リクルーティングに事欠くことはない。銃火器の知識に長けるミリタリーマニア、アウトドアの経験豊富なタフガイがいれば幸い。食事や応急処置を慣れない手つきで担い、死地にわずかの清涼感をもたらす少女を外すことはできまい。彼は気づいているのだろう。俺たちが、死地に貶められながらも、擬似家族のような共同性を演じてみせるのは、このようにして真実が多くの人によって共有され、読者を興奮させ、最終的にはごく僅かな教訓を与えるためであると。彼は特権が与えられていることに、ささやかな興奮と義務感を抱きながら、身体的精神的疲労によって意気消沈する仲間を鼓舞するムードメーカーを演じなければならない。

 最低限のライフラインを確保した後に必要なのは、ゲームに乗るかどうかの判断である。彼らはこれまで積み上げてきた信頼関係を裏切ってまでも、統制者から与えれた職命を果たす必要があるのだろうか。一度乗れば降りることは許されない。これは不可逆の生存競争、弱肉強食の世界なのだから。しかし、わかっていることだ。彼らに選択の余地はない。戻ることのできない日常に別れを告げ、ゲームを受け入れるしかないのだ。

 逃れることのできない運命を受け入れた彼らは、数多くの試練に望むことになるだろう。試練は集団外的試練と集団内的試練の二種類である。前者の集団外的試練は極めてハードボイルドなものだ。彼らは統制者により遊び半分で依頼された用件や、迫りくる試練を拒否する術をもたない。それを達成するための命がけの努力は、もはや所与の条件として、彼らのわずか数分先の生存を息つく暇なしに脅かし続けるだろう。襲い来る未知の生物、太古に絶滅したはずの動植物、異世界の住人、正体不明のウイルスの蔓延、地震津波による進路の封鎖。あるいは、彼らに先んじてゲームに参加していた「既プレイヤー」との党派争い。この既プレイヤーは、どういうわけかアマゾンの先住民族のような原初的生活を送っていることも珍しくない。気性の荒い人物をリーダーとする彼ら先駆者たちは、俺たち新参者が知らぬゲームのルールに知悉しており、不幸なファーストコンタクトからはじまったものの、幾多の試練を共にくぐり抜ける「異文化交流」を経て、彼らの数人は俺たちの善き理解者となってくれる。これら集団外的試練に巻き込まれた哀れな子供たちは、結束を徐々に強め、擬似家族としての役割を確固たるものにしていく。

 それではもう一方の集団内的試練とはどのようなものか。それは集団外的試練によって結束を固めた擬似家族の危機であり、関係のせめぎあいである。息つく間もなく連続する試練への方針をめぐって、彼らは内紛を起こし、ときには集団の維持に深刻な危機を及ぼすことになるだろう。生存のためには現場にとどまったほうがよいと主張する慎重派と、脱出路を探索する必要があると主張する行動派の対立。ときにはそのひとりがパニックに陥り、荒れ狂うモンスターとして危害を加えることも珍しくない。年長者やかつての権力者がこの損な役回りを引き受け、道化として振る舞うことになるだろう。クラスの外れものだった飄々とした雰囲気をまとった黒髪ロング長身の美女は、世界を統制する秘密のルールに触知している素振りすら見せ、彼らが拠って立つゲームの欺瞞に覚醒する契機となるかもしれない。

 彼らはなぜ、このような理不尽なサバイバルゲームに駆り立てられたのだろうか。極限状態の生存競争に意味などありはしないという反論をあざ笑うかのように、このゲームはたんなる思いつきや嘘出鱈目ではなく、ある現実感に基づいた教訓的な物語として彼ら(=ゲームプレイヤー、読み手)に提示されている。驚いたことに、統制者(=ゲームマスター、描き手)は、世界や社会に対して、哲学めいた確信を抱いていることも多い。私たちが住まう社会は欺瞞に満ちている。われわれの本音は隠蔽され、不平不満は粉飾され、動物としての本能は包み隠され、退屈で表面的な儀礼的関係として人間関係が塗り固められた囚人であると。しかし統制者によって構築された極限状態においては、彼らを束縛する法も、欲望を押さえつける倫理も存在しない。表面的で儀礼的関係を剥奪された人びとが、極限の状態でいかにして暴力性や利己主義に目覚めるという事実に、彼らは直面することになるだろう。心して聞くがよい。これは人生の教訓、人間の本当の姿についてのバイブルなのである。

 それゆえ、彼らの物語が、半ばだまし討ちのようにして中座させられるのはまったく必然である。作者の陳腐な哲学と、緊張感を維持せねばならないとの強迫観念に責め立てられ、生命を消費し続けるサバイバルゲームに着地点などあるはずがない。物語の構成を考えれば、ゲームルールに則った強者の優勝はあまりにもありふれているので、この結末も封じられている。サバイバルゲームを乗り越えた彼らの今度の標的は、世界を司る統制者だろうか。明確な標的を設定することなく、心理と倫理の抽象的世界に読者を連れ込むことで、拍子抜けの最後を遂げるのだろうか。それとも崩壊した世界での生存を誓い合い、荒野に踏み出すことでエンディングを迎えるのだろうか。複製され続けるサバイバル作品に共通する漫画的想像力の欠如が、生命倫理的暴露と社会的啓蒙として結実し、捻れた少年少女の意識に滑りこむ程度のニッチな市場を構成した時代も今や昔。この傾向の作品群が、今や漫画作品の主要たる一角を占めている事実に目を光らせなければなるまい。


漂流教室 1 (ビッグコミックススペシャル)

漂流教室 1 (ビッグコミックススペシャル)

バトル・ロワイアル

バトル・ロワイアル

ドラゴンヘッド(1) (ヤンマガKCスペシャル)

ドラゴンヘッド(1) (ヤンマガKCスペシャル)

GANTZ 1 (ヤングジャンプコミックス)

GANTZ 1 (ヤングジャンプコミックス)

彼岸島(1) (ヤンマガKCスペシャル)

彼岸島(1) (ヤンマガKCスペシャル)

自殺島 1―サバイバル極限ドラマ (ジェッツコミックス)

自殺島 1―サバイバル極限ドラマ (ジェッツコミックス)

エデンの檻(1) (講談社コミックス)

エデンの檻(1) (講談社コミックス)

進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)

進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)

スプライト 1 スプライト (ビッグコミックス)

スプライト 1 スプライト (ビッグコミックス)

少女漫画の構造化された形式性への批判精神を『ストロボ・エッジ』に見る

 ある作品を良作であるとして推奨する場合、私たちは何に基づいてその判断をくだすのだろうか。それは他の何にも交換不可能な唯一無二の感動体験か、歴史的に醸造された表現形式の保守か、それとも個人の感情移入を超越した普遍的な美の顕現であるのか。

 2007年7月号から三年間、「別冊マーガレット」にて連載された少女漫画、咲坂伊緒ストロボ・エッジ』にて描かれた、幾度の変容、分化、統合を経ながら形成された少女漫画に固有の形式に対する批評的眼差しは、私たちが作品を語るにあたって準拠するべき価値観を再考する機会を与えてくれた。

 今回は、少女漫画としては久しぶりの目の覚めるような良質の作品である本作の、ある人間関係の変化に注目することで、現代の少女漫画が抱えるある問題点に標準を定め考えたい。

 『ストロボ・エッジ』の物語上の設定を要約してしまえば、それは凡庸すぎるほど凡庸だ。舞台はある高校。容姿も平凡だが素直で純粋な性格ゆえに周囲から慕われている高校生の木下仁菜子が、勉強、スポーツともに優秀のクールな男子、学校中の女子の憧れの的である一ノ瀬蓮に恋をする。仁菜子は自分とは到底釣り合わないと謙遜していた蓮と、ふとした偶然から接近し、徐々に彼に対する思いを強くする。物語途中、複数のライバルの登場を経つつも、最終的に仁菜子と蓮の恋愛は達成されることとなるだろう。

 こうした「憧れの人物との恋愛達成」という基本軸は、少女漫画の定義と構わないような王道の展開であり、なんら新鮮味はない。それでは平凡なストーリー展開の本作が、凡百の少女漫画と異なる点は何か?それはストーリーの進行スピードと、展開に起伏をもたらすための「事件」の徹底的排除である。いくつかの例外を無視すれば、少女漫画は恋愛を描かなければならない。恋愛を描くことこそが少女漫画の本質であり、その定義そのものである。逆にいえば、恋愛を描かなければ、それは定義上、少女漫画ではあり得ない。この原則は、これまで出版されてきた無数の少女漫画の主題を振り返ってみれば、それほど的外れなものではない。今回は詳述しないが、70年代の少女漫画変革期に限定しても、大島弓子岩館真理子陸奥A子、里中満智子池田理代子は言うに及ばず、萩尾望都山岸凉子ら、性を積極的に表現せず、SF、ファンタジーなどの文学性を重視した作家ですら、恋愛と無縁だったわけではない。

 少女漫画の定義によりテーマが恋愛の達成に限定されている以上、それが障害を乗り越えて恋愛を成就させる〈障害の超克モデル〉であれ、複数の登場人物の複雑な関係の力学への共感によって、そうした「予定調和」を相対化する〈関係への耽溺モデル〉であれ、作家はストーリー進行のため、半ば義務的な表現上の要請に縛られることになる。それは「事件の連続的生起」である。「少年ジャンプ」に典型的な少年漫画ならば、次々現れる敵に立ち向かい、激しい戦闘によりこれを乗り越え、能力的に、精神的に成長するプロセスを反復することによって、読者の主人公への共感と自己肯定がなされる。バトルシーンとドラマシーンの往還によって表現上のメリハリもつきやすい。ところが少女漫画の場合、こうした表現上の起伏を演出するのが極めて難しいのだ。限定された舞台装置(学校、職場と郊外のアパートの往復、勤めていた会社を退職して5年振りの帰郷先)に拘束され、登場人物の関係が微細に変動させることで物語を進行させる少女漫画にて、少年漫画のような起伏をもたらすための選択肢はただひとつ、ひたすら事件を生起させる以外にない。

 例えば、学園を舞台とする〈障害の超克モデル〉ならば、「学校のみんなが憧れるイケメン男子への接近を妬む周囲の女子による集団的いじめ」「二人の関係を快く思わない厳格な母親の介入」「親愛なる人物の離婚、転居、事故、死亡による精神的トラウマ」として「事件の連続的生起」は具現化する。主人公が意中の相手、もしくは親友と協力して、これら障害に立ち向かい克服するプロセスの描出によって、ストーリーに起伏がもららされ、読者は単調な関係性にメリハリをつけて読むことができる。

 このような少女漫画の〈スペクタクル化〉は、ここ20年の間、明白に進行したように思われる。この流行の変化についてはさらに詳しく考察されるべきだが、思いつくだけでも、少女漫画の舞台設定の「学校化」、モノローグと比喩の減少、「内面への没入」から「危機への反応」などといった傾向の変化を挙がることができる。

 こうした少女漫画の歴史的前提を踏まえると、本作が極めて平板で何も起こらない作品であることがわかる。「事件の生起」が極小的なのだ。確かに正確には、物語を進行させるための何らかの事件は起こっている。それは父親の再婚に対する大樹と麻由香ら姉弟の反発であり、安堂による蓮と真央の浮気現場の目撃であり、仁菜子と安堂に絡むヤンキーの暴力なのだが、これら事件は、決して物語の中心に据えられるわけではない。というよりも、直接的にはこうした事件をストーリー進行の契機としながらも、それに翻弄される人物といったありきたりな単線的展開は後景に退いており、主軸はあくまで、それにより変容する微細な関係の推移に定められている。

 そうした「事件の拒否」を象徴的に描かれるのが、「仁菜子の蓮への気持ちの徹底的な抑制の努力」と「真央の登場による三角関係成立の拒否」に見る「〈スペクタクル化〉の回避」である。仁菜子が蓮を好きにもかかわらず、その思いを抑制する理由は、物語序盤では蓮にすでに麻由香という彼女がいるという事実に対して謙虚になっているためである。しかし彼女は、蓮が麻由香と別れた事実を知った後もその信念を貫き通す。その行動の理由は、仁菜子と三角関係にある二人、蓮と安堂の過去に遡る。今では友人ながら距離を保つ二人はかつては親友だったらしい。その関係が破綻したのは、中学時代、後輩の女子の杉本真央を巡るいざこざに由来する。当時、蓮を狙っていた真央は、彼に接近するために蓮の友人である安堂を踏み台として近づくのだが、それがきっかけで二人は付き合うことになる。しかしあくまで偶発的関係に過ぎない関係に真央は満足することができず、衝動的に蓮にキスした瞬間を安堂によって目撃され、真央と安堂は別れてしまう。この「事件」以降、それまで親友だった蓮と安堂の間には溝ができ、絶縁はしないものの、距離を置くようになっていた。

 高校にて再び登場した真央は、仁菜子に過去の事実を話してしまい、自分と同じポジションにいる(と真央が解釈する)仁菜子が自分と同じ轍を踏むことで、蓮と安堂の関係を再び破綻させないように図々しくも求める。つまり、(1)真央→蓮、が(2)真央→←安堂にシフトし、偶発的な(3)真央→←蓮によって、(2)と、(4)蓮→←安堂の関係も破綻したという真央自身の経験を、真央を仁菜子に置き換えた関係として反復することを忠告するのだ。もちろんこの忠告は慈善事業で行われているわけではなく、仁菜子と安堂のカップルを成立させることによって、蓮と安堂の関係の破綻を防止すると同時に、「フリー」となった蓮を未だにつけ狙う牽制も兼ねる、真央の二重戦略に他ならない。

 こうした複雑な関係の推移は、物語上の予定調和的な平穏に暗雲をもたらす。それはこの展開が、蓮がモデルの年上彼女である麻由香との別れによる失意と決別し、ついに主体的に仁菜子への好意を安堂に対して表明する直後に描かれている事実に明白に見出すことができる。つまりこのシーンは、蓮と同じく仁菜子を狙う安堂への宣戦布告の直後、読者が三角関係の成立を確信した直後に挿入されているのだ。それによって、少女漫画に平凡な三角関係内部の戦略ゲームの成立を撹乱するかのような「過去の女」の再登場は、テンプレート化した関係の成立による少女漫画のスペクタクル化を周到に回避する効果を物語にもたらしている。既存の漫画に対する批判精神を抱きながらも、そうした攻撃性を読者に感じさせることなく繊細な演出技法で覆い隠しながら物語を推移させる展開と演出技法に、作者のしたたかさが伺える。

 作者がすでにテンプレート化した少女漫画の形式性、つまり「事件の連続的生起」による「関係の相互読み合いによる戦略ゲーム」という〈スペクタクル化〉を拒んでいるのは、この三角関係の成立と断念が、コミックの8巻に描かれている事実にもうかがい知ることができる。10巻で完結する本作で、8巻での成立は明らかに遅すぎるのだ。通常ならば関係を構築し、ストーリーを盛り上げるためには、最初の数回で早々にこの関係を成立させる必要があるにもかかわらず。

 しかし、デビュー作『CALL MY NAME』から10年の作家によって描かれた、少女漫画の〈スペクタクル化〉に対する批判精神は、決して「事件の生起」や「三角関係」を、攻撃的に挑発するわけではない。それは決して多いわけではない登場人物による日常的会話のふとした瞬間、情報不足から安易に他者を恨む不信ベースの戦略的読み合いに陥らない爽やかな会話の連続によって、批判精神が無意識的に作品内に滑りこみ、不自然さを感じさせることなくページをめくらせる。およそほとんどの読者は、作者による卓越した技巧に気づくことなく、ストーリーを読み進めてしまうのではないだろうか。

 今回は、したたかな作家による良作を、分析の眼差しで暴力的に解体するわけでもなく、個人的体験と結びつけた安易な共感で終わらせることもなく、良作であることを認められることすら謙虚に断る素振りすら見せている一本の作品をささやかに勧めることで文章を終えよう。