杉田敦「「再帰的近代」における代表制の再評価―早川誠『代表制という思想』『政治思想研究』第16号, 2016年

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代表制という思想 (選書“風のビブリオ”)

代表制という思想 (選書“風のビブリオ”)

伊藤恭彦「グローバリゼーションと新たな政治主体の可能性―古賀敬太『コスモポリタニズムの挑戦―その思想史的考察』『政治思想研究』第16号, 2016年

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苅部直「現代をめぐる思索と精神史の試み―小野紀明『西洋政治思想史講義―精神史的考察』」『政治思想研究』第16号, 2016年

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山岡龍一「複数の「近代」像を求めて―原田健二郎『ケンブリッジ・プラトン主義―神学と政治学の連関』『政治思想研究』第16号, 2016年

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ケンブリッジ・プラトン主義―神学と政治の連関

ケンブリッジ・プラトン主義―神学と政治の連関

井上彰「ポスト・ロールズ主義の地平?―神島裕子『ポスト・ロールズの正義論―ポッゲ・セン・ヌスバウム』『政治思想研究』第16号, 2016年

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古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

 本書の最大の主張は、「若者よあきらめよ」ではなく「若者をあきらめらさせろ」である。ホネットの議論を参照しながら作られた「共同体の二元図式」において、目的性も共同性も強い第1象限に類型されるピースボートの理念、並びに彼らの理念に適合的な「セカイ型」の若者たちの「アツい」思い。彼らの強い意志は、一旦、人間関係が形成されてしまえば、ただちに目的性を喪失し、その場その場の「ノリ」や「居場所」を楽しむ「文化祭型」と同様の第4象限に「冷却」されてしまう。ある理念を実現するために形成された組織が、人間どうしの関係が自己目的化することで「居場所」化、つまり目的性が弱く共同性の強い組織に頽落する。社会運動やサークル活動など様々な集団に当てはめてもかなり普遍的現象ではないだろうか。

 このような傾向に対する著者の分析は思いの外に周到で冷徹だ。たとえば、経済的困窮に喘ぎ、社会的関係から排除された者に対して、自分が「ここにいてもよい」と承認される居場所が必要という「承認の共同体」論に対しては、「分配の正義に異議申し立てするのではなく、市場を補完する装置として機能する」との本田由紀の現実的意見を必ずしも否定することはせず、それどころか積極的に肯定してみせる。しかしその一方で、「承認の共同体」は若者の「あきらめ」の場所になるという事実もまた否定しない。「いい学校→いい会社→いい家庭」という「戦後日本型循環モデル」が崩れたいま、アメリカ的なキャリアラダーも整備されない現代の日本で、旧来的「夢追い」がうまくいきそうにないのもまた事実。そんなことをするくらいならば、友だちとバーベキューしたりWiiでマリオを遊んだほうがずっと楽しいのではないだろうか、と。

 これは相互に矛盾した二重戦略だろうか?私はそうではないと思う。「社会資本は経済資本の困窮を是正しない」ゆえに「承認の共同体」は新自由主義を温存するという解釈と、それでも社会資本から疎外された若者に承認を与えるという解釈は、いわばカメラをどこに置くかという観点から生じる違いである。著者の「承認の共同体」論は、実現させてくれないならば夢をあきらめさせてほしい若者が退避するシェルターとしては十分に機能するだろうし、そうした居場所が不要であるとは思えない。しかし本書は同時にマクロな議論を避けている。もちろん著者は織り込み済みなのだろう。「承認の共同体」が新自由主義に対抗どころかこれを棹さすならば、配分の正義を実現するエリートが必要だ。しかし著者はこうした議論に対して「あきらめきれない人が勝手にすればいいことだと思う」とそっけない。さらに奇妙なことに著者は自身の立場をエリート主義と呼ばれることを厭わないのだ。配分の正義を実現するエリートをいかにして生み出すかを正面から受け止め、教育や政治を論じるのがエリート論ならば、「できる人が頑張ってください」とゲームから下りるのもまたエリート論というところだろうか。好意的に解釈するならば、著者の「承認の共同体論」は、パワーエリートと表裏一体の関係にあるのかもしれない。そんな楽観論で政治や経済は語れないし、社会が回るはずがないとは思うけど。

中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』

現代日本の政党デモクラシー (岩波新書)

現代日本の政党デモクラシー (岩波新書)

 もはや定期刊行物となっている岩波新書政局モノの新作である。近年の政治に関する従来の分析は、政官関係や強い参院論などの統治機構の観点、あるいは自民党の鬼子でありながら結果的に党の延命に貢献した小泉純一郎らによるポピュリズムへの観点が主流であった。それに対して著者は、政党を基軸にすえながら政党内外の政治過程や選挙制度改革など日本政治史を整理する。

 本書にて著者はデモクラシーの形態を、競争デモクラシーと参加デモクラシーに大別。さらに、競争デモクラシーを、アンソニー・ダウンズの理論をモデル化した「市場競争型デモクラシー」と、ジョセフ・シュンペーターによる「エリート競争型デモクラシー」に類型する。

 前者の「市場競争型デモクラシー」における政党は、「同一の目標を持つ構成員からなり、単一の存在だとみなされる。ダウンズによると、「政党は選挙に勝つために政策を立案するのであり、政策を立案するために選挙に勝つのではない」。すなわち、利潤の最大化のために私的な財やサービスを供給する企業と同じく、政党の目標は選挙での勝利による政権の獲得であり、政策はその目標を達成するための手段にすぎない。選挙至上主義政党」であり、政権獲得を目指す大政党が、有権者が選好する政策をマニフェストとして提示して単独政権を獲得しようと競争する。

 一方、「エリート競争型デモクラシー」では、有権者ではなく、政治エリートとしての政治家が主役である。「民主主義的方法とは、政治決定に到達するために、個々人が人民の投票を獲得するための競争的闘争を行うことにより決定力を得るような制度的装置である」との記述に如実に現れているように、複数の政治エリートの政権獲得競争によって政府が形成されるのが民主主義の本質であるとシュンペーターは考える。彼のモデルにおいて、有権者ができることは投票によって政治家を選ぶことに限られ、一方の政治エリートは、高い資質を持ち、リーダーシップを発揮することで政権を運営することが期待される。

 最後の参加デモクラシーは、「シュンペーターの認識とは全く反対に、政治に関する市民の関心や能力が限定されているのは、十分な参加の機会を与えられず、排除されている」、「市民は参加を通じて人間性を高め」「政治を担う存在になりうる」との現状認識から、代議制民主主義(間接民主主義)に対して、草の根の市民の参加による直接民主主義復権させようと」試みる政治モデルである。参加デモクラシーの範囲は、選挙などの代議制システムに限らず、仕事や市民活動、自治体行政まで、生活に関わるあらゆる決定にまで広がる。市民が主体的にコミットする自治を重視するモデルである。

 このように民主主義のモデルを整理した上で、筆者はここ20年の政治的混迷を、選挙制度改革とマニフェスト政治に象徴される競争型デモクラシーの挑戦と失敗の歴史と分析する。市場競争型デモクラシーの限界とは何か。内在的要因と外在的要因が存在する。

 内在的要因は、二大政党間の競争の激化と無党派層の増大にともなって、政党がイメージ重視の選挙戦を展開したことである。「確かに、有権者マニフェストに従って投票する政党を選ぶためには、党員あるいは支持団体の構成員として政党と固定的な関係を持つことは望ましくない。選挙のたびに政党を選好する「そのつど支持」を含め、中長期的に支持する政党を持たない無党派層こそが、マニフェスト選挙が想定する有権者なのである。ところが、そのような有権者は、マス・メディアを媒介としてしか、政党に関する情報を得られず、なかでもテレビから大きな影響を受ける。そうしたテレポリティクスが、イメージ選挙を生み出す原因」となった。

 外在的要因には参議院の存在が挙げられる。マニフェストを媒介する政党政治は、総選挙を起点として、有権者衆議院ー首相・内閣のサイクルを描くことで政策が実行に移されることで完結する。しかし「参議院憲法上の強力な権限を持つ第二院であり、衆参両院の多数派が異なる「ねじれ」が生じた場合、そのサイクルは容易に寸断されてしまう。しかも、マニフェスト選挙は、小選挙区制の下、二大政党間のゼロサム的な競合を前提とするから、「ねじれ」を解消するための大連立は想定外である」。マニフェスト選挙とねじれ国会によって、国会は審議停滞を招き「決められない政治」と呼ばれる機能不全に陥った。自民党政権を結果的に延命させた小泉や、自民・民主の二大政党に幻滅した無党派層を取り込んだ橋下徹ら維新の会のポピュリズム的政治手法は、これら内在的・外在的要因から生まれた当然の帰結とも考えられる。

 ここまでの認識はたいへん的確なのだが、終盤の今後の展望を語る章に入ると、途端に議論から説得力が失われてしまう。筆者は、こうした市場競争型デモクラシーの失敗を克服するため、「比例代表制の比重を高め、穏健な多党制を実現し、参加デモクラシーへと向かうべき」と提案する。死に票の多い小選挙区制に比較して、比例代表制ならば多党化が進み、有権者はより多くの選択肢からみずからの政治的理念に近い政党を選ぶことができるというわけだ。

 だが、競争デモクラシーが政党、政治家を中心とする代議制システム内の議論であり、参加デモクラシーが自治体行政や市民活動などシステム外を含む広範な意志決定に関わる議論と定義するならば、この結論はそもそも後出しジャンケンではないだろうか。たしかに、本書では、競争デモクラシー枠内での有権者と政党の関係に言及されている箇所が存在する。「従来の政党は、頂点に党執行部や国会議員を置きながら、末端に党員、後援会の会員、支持団体の構成員などを擁し、有権者との直接的な接点を幅広く持っていた。それに対して、党員や支持団体が乏しくなった政治改革以降の政党は、有権者との直接的な接点が少なくなり、マス・メディアを媒介にして有権者と関係を持つ傾向が格段に高まった」などが該当するだろう。しかし、この議論はあくまで代議制システム内への影響がいかに変容したかについて述べたものであり、参加デモクラシーの対象となる広範な政治活動はその埒外である。

 さらにエリート競争型デモクラシーへの解釈も疑問が残る。著者は、小沢の権力志向や小泉、橋下らのポピュリズム的手法すべてをエリート主義としてまとめ、その限界を批判する。だが、彼らの政治手法はそもそもシュンペーター的なエリート主義なのだろうか。仮に彼らをエリート主義とみなす著者の主張を受け入れるとしても、「エリート主義のリソースを十分に使い尽くしていないからこそ、さらなる徹底が求められる」のか、「これまでエリート主義(ないし市場競争)を重視してきたのにうまくいかなかったからこそ、新たな方向(参加型デモクラシー)に舵を切るべきである」かは決着のつかない議論である。

 競争と参加をシステム内外の使い分けを受け入れるならば、システム内はエリート競争型、システム外はそれを監視する参加型というのが、ごく常識的な結論ではないだろうか。日本に自律した政治的主体性が立ち上がらないのはなぜかという問いは戦後一貫して国内政治学や文学評論のアポリアであり続けた。モダニストから古層学への丸山眞男の転向、並びに同時期の政治評論は、自律的な政治的主体たりえない日本が、既存のリソースを組み合わせて社会を制御することで、欧米社会に抗おうとのエリート主義的パターナリズムを見出すことができる。市民のコミットメントによって機能する参加デモクラシーを駆動するための丸山のエリート主義は、市民参加や民意の反映を教条的に称揚する戦後啓蒙派とは一線を画する。代議制システム内では有権者に政治的メニューを提示しつつ、これを達成するエリート競争型デモクラシーの追及を、システム外では市民参加によって機能する参加デモクラシーの模索を。両者が車の両輪のように駆動することでデモクラシーが達成されるのではないだろうか。どの選挙制度が相応しいか、どのデモクラシーのモデルが相応しいかはかかるモデルを基礎としてはじめて論じられるはずである。

丸山眞男集〈第9巻〉1961−1968

丸山眞男集〈第9巻〉1961−1968