ジャン・ピエロ ブルネッタ著, 川本英明訳『イタリア映画史入門―1905‐2003』(2008)

イタリア映画史入門―1905‐2003

イタリア映画史入門―1905‐2003

映画の誕生からヴィスコンティフェリーニ等の巨匠、最近の注目株まで、イタリア映画のすべてを一冊に。映画ファン待望の決定版。

第1部 無声映画の時代
 最初は『ローマ占領』から始まった…
 巡回映画の叙事詩 ほか)
第2部 トーキー映画からサロ政権
 ファシズムの終焉)の時代まで(再生の時代、その特徴と神話
 チネチッタ(映画村)、チネス社が生み出した風景 ほか
第3部 ネオレアリズモから甘い生活まで
 映画の再構築、ゼロからのスタート
 ネオレアリズモ、戦後映画の彗星 ほか
第4部 映画ブームから鉛の時代まで
 成長と危機の時代
 六〇年代、傑出した時代の秀作コレクション ほか
第5部 七〇年代から現代まで
 変容の時代
 喪失と希望の軌跡を追って ほか

長谷正人著『ヴァナキュラー・モダニズムとしての映像文化』(2017)

ヴァナキュラー・モダニズムとしての映像文化

ヴァナキュラー・モダニズムとしての映像文化

写真やジオラマ,映画,テレビなどといった複製技術による映像文化が切り開く「自由な活動の空間」の可能性を,高踏的なモダニズムではなく,ヴァナキュラー・モダニズム――日常生活の身体感覚に根差した――の視点から探究する,横断的映像文化論の試み.

序 論

第1部 ジオラマ化する世界
1  創造とは何か?:フーコーキアロスタミデリダ
2 『明るい部屋』を読み直す:写真,バルト,時間
3  ヴァナキュラー・モダニズムとしての心霊写真
4  カール・エイクリー/杉本博司の生態ジオラマ
5  ジオラマとしてのクロード・モネの庭園
6  イーストウッド父親たちの星条旗』,あるいはジオラマの内と外
7  ヴァナキュラー・イメージとメディア文化:シミュラークルとしての「ルー大柴

第2部 戦後日本映画とポストモダン
8  小津安二郎と戦後日本社会の変容:反=接吻映画としての『晩春』
9  長谷川伸と股旅映画:暮らしの倫理と映画
10 高倉健と消費社会:転換期の日本映画
11 日本映画のポストモダン鈴木清順相米慎二澤井信一郎

第3部 テレビというヴァナキュラーな公共圏
12 テレビ,生活革命,子どもの民主主義
13 クイズ化するテレビ,あるいはテレビの文化人類学
14 山田太一,あるいは「愚痴の公共圏」の可能性
15 山田太一,「パーソナルな文化」としてのテレビドラマ
16 永六輔,アマチュアリズムと放送の民主主義
17 大量消費社会とパーソナル文化

あとがき

14, 27 クリフォード『文化の窮状』

文化の窮状―二十世紀の民族誌、文学、芸術 (叢書・文化研究)

文化の窮状―二十世紀の民族誌、文学、芸術 (叢書・文化研究)

52, 64 小池『心霊写真』
心霊写真 (宝島社新書)

心霊写真 (宝島社新書)

69 宮本『モダンの黄昏』
モダンの黄昏―帝国主義の改体とポストモダニズムの生成

モダンの黄昏―帝国主義の改体とポストモダニズムの生成

107 松本『全国アホ・バカ分布考』
全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路 (新潮文庫)

全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路 (新潮文庫)

163, 173 斉藤「高倉健の曖昧な肉体」『男たちの絆、アジア映画』177, 199 北野『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』
日本映画はアメリカでどう観られてきたか (平凡社新書)

日本映画はアメリカでどう観られてきたか (平凡社新書)

180, 199 四方田『日本映画のラディカルな意志』
日本映画のラディカルな意志

日本映画のラディカルな意志

190, 201 御園生「少女・謎・マシンガン」『映画の声』 206 難波『テレビ・コマーシャルの考古学』
テレビ・コマーシャルの考古学―昭和30年代のメディアと文化―

テレビ・コマーシャルの考古学―昭和30年代のメディアと文化―

207 吉見『リアリティ・トランジット』

北野圭介著『映像論序説―〈デジタル/アナログ〉を越えて』(2009)

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

現在、「映像」はあらゆる場所に溢れ、私たちの生活において不可欠のものとなっている。アナログからデジタル映像への変化、インターネットなど画面を通した双方向コミュニケーション技術の進歩とその爆発的拡大などにより、もはや「映像」はただ眺めるだけのものではなくなった。変貌した「映像」が持つ意味と、それが与える衝撃とは何か。北米のニューメディア研究、欧州のイメージの科学をはじめ、情報理論認知科学脳科学分析哲学、映画、ゲーム、メディアアート、フィクション論など、多岐にわたる分野を大胆に横断し、来るべき「映像の理論」を構築する、挑発的な一書。

序章
第1章 画面とは何か(アナログとデジタルの断絶と連続
映し出されたものと映し出されるはずだったもののあいだ)
第2章 映像と身体(見つめる身体と操作する身体
身体イメージの厚みと膨らみ)
第3章 映像とその外部(映し出された物語と語られた物語
遮断する映像と接続する映像)
結語 言葉と映像、その新たなる距離

36 北野「「ハリウッド映画」と「ハリウッド映画みたい」の間」【リンク
54「映画をめぐる二つの代表的な思考法、すなわち、フォルマリズム(形式主義)とリアリズム(写実主義)という二つの思考法のうち、マノヴィッチは、前者のフォルマリズムの系譜を特権的に扱っているきらいが強く、もっといえば、リアリズムの系譜に関しては、それを力業ともいえるロジックで脱臼させてしまうのである」
58「すなわち、(マノヴィッチは)バザンに対して真正面から挑むのではなく、まずそれを、その後に現れた、フォルマリズムの観点からより御しやすいリアリズム論のなかに組み込むという手順を採るのであwる。具体的にはこういうことだ。バザンを否定する身振りで登場したフランスの60年代(つまりバザンの次世代)の映画批評家の代表ジャン=ルイ・コモリによる、映画における"現実らしさ"の理解は、レンズや感光剤といった技術的問題、社会や産業の諸制度、観客の思考や感性の形式などによる複合的に決定されるものだというリアリズム理解、さらには、現代アメリカ映画研究の筆頭デイヴィッド・ボードウェルとその一派による、古典的ハリウッド映画におけるリアリズムとは産業体制に造形された「本当らしさ」の技法的強調にほかならないとする考え方と、バザンの考え方を並べ合わせ、世界と画面の間の関係という軸ではなく、画面と観客の間の関係に軸を置いた、効果としてのリアリティという方向へとリアリズム概念を転換してしまうのである」
97「(ロザリンド)クラウスは、50年代、60年代アメリカを跋扈したモダニズム美学に対して数十年にわたる理論的闘争をおこなってきたことで知られている。モダニズム美学とはこの場合、単純化の謗りを覚悟でいえば、芸術実践は、(1)作品において表現内容のみならず形式においても卓越したものでなければならない、(2)その際、形式とは各作品が自らを載せている表現媒体に規定されている以上、その媒体を特質に分析的な注意を払うこと(己を実現している表現媒体だけがもちあわせている特質を十分に意識しているかどうか)が不可欠である、とする芸術批評美学である」
98 「スタンリー・キャベル―バザン的な映画のリアリズムを信望し、それをほかの表現媒体におけるモダニストの実践と同一視する、つまり、映画はその媒体の特質においてすでに/いつもモダニストであると長年主張している哲学者」
136「1960年代に構造主義記号論精神分析学が映画研究に導入されて以来、映画をテクストとみなし、その記号構造の解釈がさまざまになされたわけだが、1980年頃から、そうした構造主義的もしくは精神分析学的映画研究に対抗して、認知科学的な映画研究のプログラムが台頭し、二つの相対立する学派となって寮舎ともに発展し今日に至っている。認知はの代表格は、デイヴィッド・ボードウェルおよび彼が教鞭をとっていた頃のウィスコンシン大学の卒業生からなる一群の研究者集団である。認知派の研究プログラムの考えでは、映像経験とは、認知科学―この研究プログラムでは、主として第一世代の認知科学が主な典拠となっている―が想定している思考の情報処理プロセスにほかならず、極めて意識的、自覚的、積極的享受のプロセスにほかならない。言い換えるならば、認知派は、精神分析学派が(アルチュセールマルクス主義と接続したイデオロギー文化装置を前提とし)主唱する、映像などの文化媒体が、主体が意識しないままにその価値意識や思考構造を構造化していくのだというような、観客を無自覚で受動的な存在とみなすような捉え方は、決定的に間違っていると強い口調で反論したのである」

廣瀬純著『シネマの大義−廣瀬純映画論集』(2017)

シネマの大義 廣瀬純映画論集

シネマの大義 廣瀬純映画論集

シネマの大義の下で撮られたフィルムだけが、全人類に関わる。個人的な思いつき、突飛なアイディア、逞しい想像力といったものが原因となって創造されたフィルム(…)、個人の大義の下で撮られたフィルムはその個人にしか関わりがない。「シネマの魂」が原因となって創造されたフィルムだけがすべての者に関わるのだ。

レヴィナスゴダール小津安二郎──切り返しショットの系譜学
ロメール映画のなかの女たち――出来事を創造する
クロード・シャブロル──『悪の華』と再生産
●ポー、エプシュタイン、青山――ユリイカユリイカ
●カトリーヌ・ドゥヌーヴ――脱性化されたモンロー
エイゼンシュテイン、グレミヨン、ローシャ、ストローブ=ユイレ――地理映画(ジオ=シネマ)の地下水脈
●『ダゲレオタイプの女』問題、あるいは、黒沢映画の唯物論的転回
ストローブ=ユイレ、フォード――そよ風の吹き抜けるサイエンス・フィクション
若松孝二『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』──道程に終わりはない
フーコーイーストウッド――無理な芝居の一撃
●クェンティン・タランティーノ――Shoot This Piece of Shit
●空族『サウダーヂ』――Outra vez…, mas!
レオス・カラックスホーリー・モーターズ』──ルックス映画の極北
●マルコ・べロッキオ『ポケットの中の握り拳』――暴力階級と垂直落下
高倉健追悼――客分として生きる
●ロべール・ブレッソン――不確かさと二階層構造
鈴木清順追悼――運命、恥辱、人民
and more……

限界研『ビジュアル・コミュニケーション―動画時代の文化批評』(2015)

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

Vineゼロ・グラビティ濱口竜介原将人ジブリ、戦後TVCM、監視カメラ、3DCGアニメ、インディ・ゲーム、VR淫夢、ゲーム実況、クソコラ「映像の氾濫」から現代を見通す!!「ポストiPad」や「ポストYouTube」の視覚的イメージの文化事象が、そのメディウムからジャンル定義、産業基盤、ビジネスモデル、創造性……などなど、あらゆる局面においてそれまでとは違う、大きな変化にさらされている。このような現状においては、「映画批評」「テレビ批評」「ゲーム批評」……などといったこれまでの個別のジャンルに特化した批評や研究の語り口だけではその多様で流動的なイメージのありようを捉えてゆくには不充分である。より柔軟で多様な視点から、今日の視覚文化の見せるさまざまな動きを俯瞰的にすくいとる視覚文化批評。

序論――「映像」をめぐる新たな言葉の獲得のために 渡邉大輔
第一章 デジタル/ネットワーク映像の「思想」
「可塑性」が駆動するデジタル映像――「生命化」するビジュアルカルチャー 渡邉大輔
第二章 「映画/史」の変貌
世界は情報ではない――濱口竜介試論 冨塚亮平
三脚とは何だったのか――映画・映像入門書の二〇世紀 佐々木友輔
スタジオジブリから「満洲」へ――日本アニメーションの歴史的想像力 渡邉大輔
共同討議1
第三章 社会と切り結ぶ映像/イメージ
テレビCMとこれからの広告表現 蔓葉信博
防犯/監視カメラの映画史――風景から環境へ 海老原豊
共同討議2
第四章 ニューメディア/ポストメディウムのその先へ
拡張する「アニメ」――3DCGアニメ論 藤井義允
ピクセル・ガーデンで、お散歩を――インディー・ゲームの美学 藤田直哉
第五章 科学とテクノロジーの地平
実験室化する世界―映像利用研究が導く社会システムの近未来 宮本道人
第六章 ネットワークが生成する動画文化
野獣先輩は淫らな夢を見るか?――<真夏の夜の淫夢>概説 竹本竜都
「ゲーム実況って何?」とか「何がおもろいの?」とか言ってる時代遅れのお前らに、バカでもわかるように解説してやるよ 飯田一史
共同討議3
参照すべき映像・文献リスト

飯田『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

27 堀「ベルールの半時代敵考察」『表象08』
43 北野『欲望と権力のテクノロジー
制御と社会: 欲望と権力のテクノロジー

制御と社会: 欲望と権力のテクノロジー

45 伊藤『アフター・テレビジョン・スタディーズ』既読
55 マノヴィッチ『ニューメディアの言語―デジタル時代のアート、デザイン、映画』
ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

57 北野『映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて』
映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

77 佐藤『小説のタクティクス』
小説のタクティクス (単行本)

小説のタクティクス (単行本)

159『ゼロ年代プラスの映画』
ゼロ年代プラスの映画

ゼロ年代プラスの映画

201 カルーソー『ディスタービア』映画
246 『gdgd養成s』
251 ラーマル『アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション
アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

『ゲーム化する世界』三輪『マンガと映画』
マンガと映画

マンガと映画

315 イーガン『ゼンデキ』
ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

404 篠崎『死ね!死ね!シネマ』映画
マクマラン『ミッキーのミニー救出大作戦』
405 大久保『映像のアルケオロジー: 視覚理論・光学メディア・映像文化』
408 アラン・レネ『あなたはまだ何も見ていない』映画
410 マヤ・デレン『聖なる騎士たち ハイチの生きた神々』映画
419 『マックス・ペイン3』『ハーフライフ』『ハーフライフ2』『ポータル』『ポータル2』
423 『ゲーム実況の中の人』

加藤幹郎著『『ブレードランナー』論序説ー映画学特別講義』(2004)

「ブレードランナー」論序説 (リュミエール叢書 34)

「ブレードランナー」論序説 (リュミエール叢書 34)

主要なシークエンスとショットを追って、物語と映像の展開をテクスト論的立場からダイナミックに解きほぐしつつ、映画技法と映画史と映画理論についての再検討をもおしすすめる野心的な論考。

発端
導入
概説
面会
捜査
階梯
幕間
奸計
解析
処分
密会
友愛
再会
対決
掉尾

『ユリイカ 2017年10月臨時増刊号』「総特集=蓮實重彥」