限界研『ビジュアル・コミュニケーション―動画時代の文化批評』(2015)

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

Vineゼロ・グラビティ濱口竜介原将人ジブリ、戦後TVCM、監視カメラ、3DCGアニメ、インディ・ゲーム、VR淫夢、ゲーム実況、クソコラ「映像の氾濫」から現代を見通す!!「ポストiPad」や「ポストYouTube」の視覚的イメージの文化事象が、そのメディウムからジャンル定義、産業基盤、ビジネスモデル、創造性……などなど、あらゆる局面においてそれまでとは違う、大きな変化にさらされている。このような現状においては、「映画批評」「テレビ批評」「ゲーム批評」……などといったこれまでの個別のジャンルに特化した批評や研究の語り口だけではその多様で流動的なイメージのありようを捉えてゆくには不充分である。より柔軟で多様な視点から、今日の視覚文化の見せるさまざまな動きを俯瞰的にすくいとる視覚文化批評。

序論――「映像」をめぐる新たな言葉の獲得のために 渡邉大輔
第一章 デジタル/ネットワーク映像の「思想」
「可塑性」が駆動するデジタル映像――「生命化」するビジュアルカルチャー 渡邉大輔
第二章 「映画/史」の変貌
世界は情報ではない――濱口竜介試論 冨塚亮平
三脚とは何だったのか――映画・映像入門書の二〇世紀 佐々木友輔
スタジオジブリから「満洲」へ――日本アニメーションの歴史的想像力 渡邉大輔
共同討議1
第三章 社会と切り結ぶ映像/イメージ
テレビCMとこれからの広告表現 蔓葉信博
防犯/監視カメラの映画史――風景から環境へ 海老原豊
共同討議2
第四章 ニューメディア/ポストメディウムのその先へ
拡張する「アニメ」――3DCGアニメ論 藤井義允
ピクセル・ガーデンで、お散歩を――インディー・ゲームの美学 藤田直哉
第五章 科学とテクノロジーの地平
実験室化する世界―映像利用研究が導く社会システムの近未来 宮本道人
第六章 ネットワークが生成する動画文化
野獣先輩は淫らな夢を見るか?――<真夏の夜の淫夢>概説 竹本竜都
「ゲーム実況って何?」とか「何がおもろいの?」とか言ってる時代遅れのお前らに、バカでもわかるように解説してやるよ 飯田一史
共同討議3
参照すべき映像・文献リスト

飯田『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

27 堀「ベルールの半時代敵考察」『表象08』
43 北野『欲望と権力のテクノロジー
制御と社会: 欲望と権力のテクノロジー

制御と社会: 欲望と権力のテクノロジー

45 伊藤『アフター・テレビジョン・スタディーズ』既読
55 マノヴィッチ『ニューメディアの言語―デジタル時代のアート、デザイン、映画』
ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

57 北野『映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて』
映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

77 佐藤『小説のタクティクス』
小説のタクティクス (単行本)

小説のタクティクス (単行本)

159『ゼロ年代プラスの映画』
ゼロ年代プラスの映画

ゼロ年代プラスの映画

201 カルーソー『ディスタービア』映画
246 『gdgd養成s』
251 ラーマル『アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション
アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

『ゲーム化する世界』三輪『マンガと映画』
マンガと映画

マンガと映画

315 イーガン『ゼンデキ』
ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

404 篠崎『死ね!死ね!シネマ』映画
マクマラン『ミッキーのミニー救出大作戦』
405 大久保『映像のアルケオロジー: 視覚理論・光学メディア・映像文化』
408 アラン・レネ『あなたはまだ何も見ていない』映画
410 マヤ・デレン『聖なる騎士たち ハイチの生きた神々』映画
419 『マックス・ペイン3』『ハーフライフ』『ハーフライフ2』『ポータル』『ポータル2』
423 『ゲーム実況の中の人』

最近のクラッシュ・オブ・クランについて

 ここ最近のクラッシュ・オブ・クランの状況を見る限り、以前のエントリー(「クラッシュ・オブ・クランで日本人が負けるワケ」)で提起した仮説はそれなりに正しかったのかもしれない。国内クランの状況を一瞥すると、新年開けて数日は世界ランキングでトップ10入りを果たした国内最強クラン「JP1神」は、中心メンバーかつ、国内ランキング1位であったプレイヤーGOEMONの離脱に伴う内紛、GOEMON派プレイヤーの大量離脱、新クラン「JAPAN CHAMPIONS」立ち上げという一連の騒動によって、「JP1神」国内1位の構図は完全に崩壊した。その余波により、他クランの吸収合併を繰り返し、版図拡大していたJP1グループからも、主要メンバーが大量離脱し、複数クランが廃止、グループ全体は縮小傾向にある。

 これにより国内クランは、前述の新クラン「JAPAN CHAMPIONS」に加えて、「japan legend」「ファイティング原田」「Love & Peace」などの老舗クランが上位に乱立する状況となった。しかし、これらクランの平均トロフィー数は3万強であり、現時点にてトロフィー3万8千強で世界第1位のクラン「Kings Landing」を筆頭に、50位でもトロフィー3万1千が必要な世界ランキング最上位帯に国内クランの名前は存在しない。ちなみに同じアジア勢でも、中国、台湾、韓国、タイ、ベトナムなどのクランは世界ランキング上位に名前を連ねている。

 こうした状況や国内上位クランの現在の雰囲気を総合的に考慮しても、国内クランの協力・吸収合併など、上位プレイヤーが再び結集して世界最上位を狙う体制は、著しく後退したと言わざるをえない。もちろん、微課金ブレイヤーに過ぎない私は、内情を深く知る立場にもなければ、そんなものをスキャンダル的に暴き立てる意志もない。強クラン維持するためには、プレイヤー数、課金額やプレイ時間、さらにはクラン内の円滑なコミュニケーションなど、ガバナンス・テクニックが求められる本ゲームにて、これら要因がクランの強弱に与える影響の国際比較をせずに、国内クランに前記仮説を不当に適用するつもりもない。しかし、他国と比較しても十分なプレイヤー数を誇り、戦術論も盛んで、プレイヤーの技術も十分に備わっているゲーム大国であることに不釣合いな現況を観察していると、仮説の正しさを確信するのもまた事実である。

 ゲーム内容について。私が現在、位置するトロフィー帯は1900〜2200という、中堅長期プレイヤーには居心地のよいぬるま湯帯域なのだが、このランクの攻撃スタイルはもっぱら、1.ジャイアント・ヒーラーのアレンジ、2.ホグライダー・ラッシュ、3.バルーン・ガーゴイル・ドラゴンの空軍がほとんどである。1はゴールド・クリスタル帯域では、ウィザード増量により、それまでアーチャーが担っていたジャイアントの中央突破アシストの役割を代替することで、全壊は厳しいまでもそれなりに安定した戦績を上げることができる。この戦法から、ジャイアントをゴーレムに、アーチャーをウィザード、ネクロマンサーに置き換えたものが、最上位で現在主流となっているゴーレム・ウィザード・ネクロマンサー(GoWiWi)だろう。

 2と3の戦法の流行の要因としては、火力のあるホグライダー、バルーンの安定した強さは言うまでもないが、方法論として語りやすいことが挙げられるかもしれない。というのも、ホグとバルは兵器優先で攻撃するため、戦闘開始直後にクラン城の援軍さえ処理してしまえば、あとはユニットを一気に流し込むだけで、それ以上の操作はほとんど必要なく、プレイヤーはヒーリング、レイジなどの呪文を使う適切なタイミングにのみ集中できるためである。戦術として非常に簡略であるため、チャットやリプレイの共有によるクラン内コミュニケーションによって習得しやすいことも流行を手伝っているだろう。とりわけ、2のホグ・ラッシュの流行は爆発的であり、現在、クリスタル以上のリーグでは、中央にクラン城・クロスボウインフェルノタワーを、外周に他兵器を広く配置し、ホグを周回させている間に、巨大爆弾・援軍・中央兵器で処理する、対ホグ村が急増している。しかし、この配置は兵器間のスペースが広いため、他の攻め方に弱く、陣形に悩むところだ。

クラッシュ・オブ・クランで日本人が負けるワケ

 クラッシュ・オブ・クラン(以下「クラクラ」と省略)はじめて2,3週間ほど。最近では、パズドラを超えるほどのめり込んでいる。というより、パズドラならば数十分から数時間必要なスタミナ回復の時間がクラクラの場合は非常に短いので、パズドラをプレイできない時間をこちらで潰すという並行プレイで楽しんでいる。

 今回は、クラクラにおける日本人クランの運営の下手さについて述べたい。以前、Twitterでこのようにつぶやいた。「国内クランが今ひとつ盛り上がらず、海外と比較して弱小なのは、日本語版が遅れたためだけではなく、日本人のコミュニティ維持能力が著しく欠如しているためではとの疑念が確信に変わった。プレイスタイルの異なる他者を尊重できず小さな諍いで物別れする」。

 あくまで思いつき程度で述べたものなので、この仮説がどこまで妥当なものであるか検証が求められるだろう。ここでは、さしあたり、3,4のクランに所属して上記仮説が経験則的に導出された経緯を書いておこう。現在の所属クランBの前に所属していたクランAは実にヒドい有様だった。仮説の大部分はここでの体験に依拠している。

 噂によれば、国内クランは登録したものの放置状態というプレイヤーが少なからずおり、援軍要請してもスルーされる所謂「過疎クラン」が多数存在するらしい。そこで、「体育会系」をうたうクランAに加入した。当初は良クランであるように思われた。援軍要請すればものの数秒も経たないうちに、クラン一杯の援軍が送られ、新参者が円滑にプレイできる環境だったことは間違いない。しかし、徐々にクランAの問題が明らかになってきた。このクランの管理人(ゲーム内では「リーダー」)は、いわゆる荒らしや問題発言、行動といった、クランの秩序を乱すわけでもないプレイヤーを、明確な基準もなしに次から次へと追放している情報がチャット欄に流れてきたのである。

 しかし、リーダーあってのクランということもあり、下手に逆らって追放されても災難と考えたのだろうか、他の構成員は、抗議の声を上げたり、追放基準の明確化を要求するわけでもなく、こうした現状を見て見ぬふりでスルーする状況が続いた。私が追放されたのは、その矢先の出来事である。私が他構成員とチャット欄にて、同ゲームを課金プレイしているかどうかを雑談していると、突然なんの忠告もなしに追放されてしまったのである。

 いまから考えれば、追放の理由はいくつか挙げることもできる。たとえば、私と雑談していた相手は、課金してまでのめり込むプレイヤーをバカにしたと受け取れるような発言をしていたし、あるいは私がパズドラの名前を出したことが理由かもしれない。クラクラ界隈では、コラボキャンペーン以降急増した「パズドラ民」の「民度」の低さが悪しき噂として広がっていたため、私をパズドラ民と判定したのだろうか。

 しかし、問題はそこではない。組織運営に際して、リーダーが組織を統制する論理や制裁(サンクション)を与える基準を構成員に開示することなく、秘匿された個人的判断のみでクランを支配するガバナンスの手法にある。このような統治のスタイルを独裁という。クラン運営(あらゆる組織運営も同様であるが)に際して、特定のリーダーの意思決定が全体を統制するのはシステム設定上、自明の理である。しかし、必ずしもこの事実をもってして、リーダーのあらゆる個人的判断を「やむをえぬもの」として無条件に受け入れるのが、あるべき統治であるはずがない。組織をあずかる以上、リーダーは構成員に対して、さらには組織そのものに対して、統治の論理、組織運営を規定する法、肯定的/否定的サンクションが与えられる基準といった、運営に伴う各種ルールを開示し、構成員の承認を得た上で、統治がはじめて容認されるのが民主主義的統治のあり方である。ここにて構成員は、秘匿されたリーダーの恣意的判断に怯えることなく、安心して日々の活動を行うことが可能となる。

 これは敷衍して考えれば、独裁制と民主制、どちらが、より「効率的」であるかを明らかにする実験だと解釈することができる。不明確な基準を独占することで恐怖政治を行うリーダーによる突然の制裁に怯えながら奴隷化する平民で構成される独裁制か、あるいは情報の開示とあらゆる個人を尊重する民主制のどちらが、より効率的に社会を発展できるのか。国内クランが弱小である理由に、日本人の組織運営やコミュニケーション能力の欠如を見出すことができるかもしれない。

 事実、クランAは、私が追放されて数日後、内紛が発生したのだろうか、構成員はかつての40数人から激減し、リーダーと彼の現実の友人らしい5人程度にまで削減され、さらに数日後、リーダーの名前すらなくなっていた。個人の恣意的判断で組織を統治しようとする独裁制の結末など、所詮はこの程度のものである。今となってはあのタイミングで追放されたのは、ちょうどよかったのかもしれない。クランAをトロフィー数で抜いて、私を追放したリーダーを叩きのめしてやろうという目論見は、残念ながら実現できずに終わりそうだが。

『みんなで牧場物語』とネトゲの論理

 最近、時間つぶしのために『みんなで牧場物語』というソーシャルゲームをはじめたのだが、なかなかに面白くてついつい作業の合間にプレイしてしまい、「ネトゲ廃人」の端緒を覗いたかのようで、その恐ろしさを痛感している。

 そもそもぼくはこれまでネトゲのプレイ経験がほとんどなく、大学入学後ほとんどゲーム自体から遠ざかったとはいえ、たまにプレイの機会があるかといえば昔ながらのコンシューマーかゲームセンターくらいだった。というのも、ごく最近までぼくはネトゲに対するある疑念を抱き続けていた。それは課金制である。基本的には初期費用ゼロでゲームをプレイできるネトゲで利益を上げるためには、ゲームを有利にプレイできるようにアイテム等をクレジットカードで決済して購入するのが、企業側の論理だろう。これは営利活動としてはもっともだ。

 しかし、単純に考えてこのシステムは、金を投資した人が、そのままゲームの世界でも強者になってしまうことを意味する。オフラインでプレイできる家庭用ゲームならば、同一の初期費用を投資してゲームソフトを購入してしまえば、あとは平等であり、プレイヤーの技術によって優劣が決定する(もちろん友人間の情報交換やネットの攻略情報などの環境に依存している部分もあるだろう)。しかし課金制のソーシャルゲームならば、お金さえ投資してしまえば、プレイ技術は等閑に付されてしまうのだ。

 感覚的にに類型化してしまえば、コンシューマー=平等主義、ソーシャル=自由主義ということになるだろうか。限定された環境で全員横並びでスタートするコンシューマーに対して、ソーシャルゲームはスタートは同一であるものの、プレイ中の投資によって優劣が決まる。従って、ソーシャルゲームの運営はジレンマに苛まれるだろう。提供するゲームを万人に開かれたものにするためには、富者が勝利する興冷めの構造を粉飾し、誰でもそれなりに楽しめるサービスを追求する必要がある。しかし採算を取るためには課金制を捨てることもできない。この両義性に。

 このジレンマを解消するひとつの方法は、「没入させること」だろう。お金で優劣が決定する論理が全てのプレイヤーに認知されてしまえば興ざめだ。したがって、ソーシャルゲームはプレイヤーに、「そんなことはわかっているけどやめられない」プレイ環境を提供する必要がある。いわば、ソーシャルゲーム自由主義の環境内でプレイしながら、その世界を成立させている前提条件を忘却させてしまうよう扇動しなければならない。感覚を麻痺させる必要があるのだ。

 目下プレイしている『みんなで牧場物語』にもその仕掛けがいたるところに準備されている。例えば、「とにかく作業させること」である。『みんなで牧場物語』はゲーマーではお馴染みの「牧場物語」シリーズとほとんど同一のシステムであり、プレイヤーは牧場の主人となり、野菜や家畜を収穫・飼育し、それによって得られたお金でさらなる野菜・家畜を購入したり、設備を投資する。これによって牧場を拡大・発展させるものだ。ポイントは、育成が主に二つの手段で行われることである。第一は時間をかけた育成、第二はアイテム獲得である。前者はゲームが進むごとに多くの時間を必要とする。例えば、収穫までにイチゴは48時間、ニンジンは72時間を必要とする。ならばこの時間、プレイヤーは暇になってしまい、ゲームを一休みできるかといえばそうではない。その間プレイヤーは第二の手段でプレイすることになる。他のプレイヤーの牧場を訪問し、野菜や動物を「お世話」することでアイテムを収集しなければならないのだ。つまり、「時間をかけた育成」と「アイテム獲得」の両者が求められる以上、ゲームを最も効率的に進めるためには、プレイヤーは休みなしでずっとプレイするしかないのである。

 これは極めてーとりわけ日本人の心象にー訴えかける仕組みである。私たちの多くは作業させられることを望んでいる。与えられた余暇を自由に使いこなすほど、私たちの多くは賢くないので、職務のみならず、余暇の時間すら「作業させられる」ことを望んでしまうのだ。ソーシャルゲーム自由主義を粉飾して、多くのプレイヤーを獲得、維持するために、ネトゲ運営側による没入の仕掛けはこのように巧みは構造で私たちを誘惑する。ネトゲ廃人はこのようにして誕生するのだと実感した。



写真はわが牧場。バンビがお気に入り。