一ノ瀬正樹著『英米哲学史講義』(2016)

 

英米哲学の諸潮流は、「経験」を基盤に据えるという発想に導かれている。それは、ロックやヒュームらの「経験論」を共通の源泉とするためだ―。ベンサム、J.S.ミルに発する「功利主義」。フレーゲラッセルを先駆に、ウィトゲンシュタインクワインをへて現代に連なる「分析哲学」。パースが提唱しアメリカを体現する思想となった「プラグマティズム」。そして、ロールズノージックらの「正義論」。本書は、こうした英語圏の哲学的系譜を、経験論を基点として一望のもとに描き出す。主要哲学のつながりを明快にとらえる、入門書決定版!

経験論の源流
ロック哲学の衝撃
ロックの所有権論
ジョージ・バークリの非物質論
ヒュームの因果批判
ベンサムの思想
ミルと功利主義
論理実証主義と言語分析
論理学の展開
ウィトゲンシュタインの出現
現代の功利主義
プラグマティズムから現代正義論へ
帰納の謎
自然主義の興隆
認識の不確実性
ベイズ主義の展開

 

辰已知広「テクストとしての映画衣裳―『憎いあンちくしょう』を事例に」『映像学』2021年, 106巻, p.98-119

本文

森英恵は1954年より日活を筆頭に、複数の映画会社のために衣裳デザイン並びに製作を行い、映画産業に大きく貢献した。衣裳は照明や音楽と同様、製作において高い技術が求められるとともに、映画の印象を決定付ける重要な要素である。本稿は森の仕事に注目し、『憎いあンちくしょう』(蔵原惟繕監督、1962年)において浅丘ルリ子が着用した、森による衣裳を中心に作品分析を行う。その際、アーウィン・ゴッフマンが提唱した「行為と演技」の概念を手掛かりに、浅丘による登場人物の生成において、「演技」と衣裳が如何に密接に関わっているかを指摘する。1960年代前半における女性表象を概観すると、衣裳は女性性を強く打ち出すスタイルが中心であり、男女二項対立を前提とした物語世界に奉仕する役割を担っていた。一方『憎いあンちくしょう』では、男性も女性も「演技」を通じて自己の望むものへと向かって「行為」をしており、その意味が衣裳に込められた点において、アクション一辺倒であった日活の新基軸として評価できる。

また、男性登場人物の分析に偏った先行研究とは異なり、自ら行動する浅丘が役を通じて規範からのずれを垣間見せる姿について、衣裳に加えてカメラワークからも把握することを試み、男性主人公に引けを取らない重層的な女性像を明らかにする。さらには浅丘のキャリアを振り返り、日活における女性表象の変遷と日本映画史との関わりを考察する。

103「パメラ・チャーチ・ギブソンによれば、「ファッションとはフェティシズム
の最も明白かつ不快な表れであり、男性の視線を満足させるために女性が自 らを呈示する場であるというフェミニストの信念」が、長く衣裳の研究を阻ん でいた(Church Gibson, 2000)。」

森田塁「撮影行為における知覚について―福原信三「写真の新使命」の精読を通して」『映像学』2021年, 106巻, p.56-77

本文

福原信三の写真論「写真の新使命」は、彼が創刊した雑誌『写真芸術』において、1922年の4月から9回に渡って掲載されたエッセイである。これはのちに多くの写真論を書くことになる福原が、初めて明確な目的のもとに書いた文章である。

従来福原の写真論は、「光と其階調」という理念を提唱したことによって知られており、写真に写す対象を光の調子に還元する彼の写真作品の様式を説明する理論として理解されてきた。こうした先行研究に基づきながらも、本稿では福原の写真論を、写真を撮影する者が撮影行為における知覚のはたらきを記述したテクストとして解釈することを提示したい。そのために「写真の新使命」の精読を行う。

第1節では、福原が「写真」と「芸術」をどのように関係づけたのかを明らかにする。第2節では、彼が自身の写真芸術にとって理想と考えた撮影行為を、「写真的知覚」の形成として考察する。第3節では、カメラを手にする者が到達すべきだと考えられた「主客合一境」という概念の意味を、西田幾多郎の哲学との関係において検討する。さらに以上の考察を踏まえて、福原の撮影行為における「即興」の必然性を明らかにする。

結論として、この福原の写真論が、撮影行為における知覚の重要性という普遍的な問題を探究するテクストであることを論じる。